2月19日(金):時間の重み
今日はメチャメチャしんどかった。昨晩はぐっすり寝たにもかかわらず、疲労感や倦怠感がひどかった。この倦怠感はコロナかと思ったが、検温するとまったくの平熱であった。不思議なものだ。僕はとっくにコロナに感染していると信じているのだけれど、その証拠になるようなものが何もない。
この倦怠感も、後で記すけれど、午後にはすっかり治まった。
重い体を引きずって、今日は家を出た。足の具合は幾分ましになりつつあるとは言え、まだ膝に十分な力が入らない。膝カックンになるので、一応、今日も杖を持って出た。杖がなくても歩行は可能であるが、転倒防止のためだ。
職場に着くも、体と気分が重くて、最初は何もできない状態だった。お昼も食べる気がしないのを無理やり胃に詰め込んだ。
思い切って体にムチ打ってみる。足を庇いながらだけれど、可能な限りで体操をし、運動をし、ストレッチする。ああ、ちょっと回復した感じがある。少し時間を置いて、さらに体を動かす。ようやく体が動くようになってきた。
どうも体の重さは運動不足からも来ているようだ。こういう素人判断はよろしくないのだが、どうにか体が動くようになってきた。体が動くと気力も増してくる。後はひたすら今日の予定をこなす。勉強にも身が入るし、室内の清掃も力が入る。一心不乱に取り組んだ。
生きている間に、やり残していることはやり通す、達成していないことは達成する、しようと思っていることはする、そうして人生を全うしたい。いつ人生が終わるとも限らないからである。まさにメメント・モリである。死を忘れることのないように生きなければならない。
少しの時間も無駄にはできない。人生はあまりにも短いからだ。たとえ100歳まで生きたとしても、100年間でできることなんてたかが知れている。時間は無駄にはできないし、そんな贅沢はこの年齢になったら許されないことだ。僕も今年で50歳を迎えることになるが、人生の終盤である。残された時間は少ない。
一日一日を無駄にしてはいけない。一日の停滞は十日の損失と思うことにしよう。実際、それくらいの重みがある。若いころには時間が無限にあるかのような気持ちもしたものだ。中年になるとそうもいかない。生きられる時間の重みが年齢とともに変わってきたのだ。最近はつくづくそう感じられる。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)