2月19日(日):「ヒトラー元型」
今シーズンの徹夜が一日増えた。まあ、仕方がない。働いた分の日当は出るのだから文句は言わないでおこう。
時間がいくらあっても足りない感じがしている。僕にはもっと研究してみたいことがある。あまり人には言わなかったことだけど、僕は随分前からアドルフ・ヒトラーについて調べてみたいという願望があった。何冊か関連書も読んでいる。ただ、研究したいと言っても、僕がヒトラーを賞賛しているとかいうようには捉えていただきたくないのである。ヒトラーという人間に興味があり、その一生を勉強してみたいのだ。
ヒトラーは独裁者のイメージが強い。確かに独裁者には違いない。でもムッソリーニやスターリンとはまるで違うタイプだと僕は捉えている。独自の傾向があるように思われるのだ。そして、ヒトラーだけでなく、その周囲の人々にも興味があるし、当時のドイツという国や国民にも興味がある。
まあ、そういうことはさておき、ヒトラーを狂人だと言って排斥するのは簡単である。多くの人はそういうことをしているのではないかと思う。変な喩えで申し訳ないのだけど、皆さんは健康状態を調べる際に、検便や検尿を経験されたことがあると思う。それと同じで、人が排斥したがるものの中にとても大切な情報が含まれていると僕は思うのだ。だから人間を知りたいと思うのであれば、人が見たがらないものにもっと目を向けていかなければならないと思う。狂気や犯罪、異常者と見做されているような人にもっと目を向け、研究していかなければならないと僕は考えているのだ。
それに、ヒトラーという人は、果たして僕たち一人一人とそれほど隔たった人間だったのだろうかとも思う。みんなの中で一番注目を浴びたいとか、経歴をサバ読みしたいとか、人を従えたいとかいうような感情を経験されたことはないだろうか。ヒトラーはそういうことを経験している人だったのだと僕は思う。つまり、僕たちの中にも同じものがあるかもしれないという観点が必要なのだと思う。
しかし、いくつか関係書を紐解いていると、情報に微妙なずれがあったり、著者の解釈によってまったく異なった見解が出されたりしていて、かえってよく分からないという面もある。特にヒトラーの両親に関する評価はいくつか分かれているように思った。父親は厳しい人だったという点では共通しているのだけれど、虐待はなかったとか、特に子供への教育おいて厳しかったというように限定的に述べられていたりする。
僕は最初の頃はとても暴力的な父親を想像してしまったのであるが、一方で、この父親は養蜂所を営み、飼育していたというのだから、面倒見のいい一面も持っているように思われるのだ。
母親はアドルフを溺愛し、怠け者にしたという批判がなされるが、父親が厳しく躾けたのは、母親の育児の反動だっただけなのかもしれない。この両親に関する資料はあまり多くないという感じである。アドルフの誕生を父親は望んでいたのか、母親は年の離れた夫との関係で満足していたのかとか、そういうことは分からずである。
いつかそういうことを書いて掲載してもいいなと思っている。実現するかどうかはともかく、僕たちは自分の中にある、いわば「内なるヒトラー」に気づく必要があると僕は考えるようになった。「ヒトラー元型」なるものがあるとは言わないのだけれど、ヒトラーが同一視した元型と同じものが、やはり僕たちの中にもあるだろうと思う。知らず知らずの内にその原型と同一視してしまうと、僕たちはやはりヒトラーみたいになっていくのかもしれない。
ただし、決定的な違いもあるということだけは述べておこう。同じ元型に同一視したとしても、完全にはヒトラーのようにはならない人が多いはずである。それはヒトラーには何かが決定的に欠けていたと思えるからである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)