2月18日(木):静かに生きたい
コロナの切り札であるところのワクチン接種が始まっているが、僕のような人間のところに回ってくるのはいつのことになるやらである。年内に国民全員接種ということを国は目指しているそうだけれど、絶対に無理だ。年内でようやく高齢者が全員接種できたという程度ではなかろうかと思う。
僕は思うのだけれど、医師や看護師が足りないというのであれば自衛隊を出動させればよいではないかと、自衛隊の医師団や看護師団をワクチン接種の人員に充てたらどうかと思うわけだ。通常の医療業務の合間を縫って、あるいは並行して、ワクチン接種もやるというのは医師、看護師には相当な負担となるだろう。自衛隊が派遣されてもいいレベルであるように思う。
オリンピックのことは連日報道されているけれど、いい加減見飽きた。橋本聖子さんが委員長になるとか。誰が委員長になろうとどうでもいい。オリンピックなんて廃止してもいいくらいだと僕は思っている。
こういう状況で島根県は立派である。聖火リレーを県内に通らせないことを検討しているのだ。僕には正しいことのように思える。自粛期間中も「県をまたぐ移動は控えましょう」などという言葉を耳にしたものだ。今もやはりそれを聴く。不要不急の外出は控えましょうというメッセージと併せて発信されることもある。このメッセージに従えば、当然、聖火リレーもアウトになる。国民の移動は制限して聖火リレーは許可されるというのはおかしなことだ。聖火リレーもリモートで、あるいはヴァーチャルでやったらどうかとも思う。それで十分だという気もしないではない。
オリンピックなんて誰も何も期待していないのじゃないか。仮に開催したとしても、観戦する余裕のある人たちがどれほどいるだろうか。オリンピックどころじゃないという人たちの方が圧倒的に多いのではないだろうか。誰のためのオリンピックなのかさっぱりわからなくなる。まあ、開催しても、人類が政治の恥さらしを露呈した証としてのオリンピックになるのではないか。
今朝のワイドショーで煽り運転自転車のことをやっていたな。自転車が急に車道に突っ込んでくるというようなものだ。自動車を運転する人たちは親切なことに、目の前に自転車がふらりとやってきても急ブレーキを踏んであげるのだ。少々跳ね飛ばしてもよろしかろうと僕は思っている。ドライブレコーダーを分析すれば自転車側に落ち度というか悪意があるのは明らかなのだ。日本も事故を一件ごと検証するようにするべきで、自転車と自動車では自動車の方が悪いという考え方は排除するべきだ。どちらがより交通規則を違反しているかで判断しないといけないことだ。
自転車側は車の前に飛び出しておいて、車に衝突しそうになると運転手を睨んだりするそうだ。なんてことはない、自転車に乗っている側にとって予想外のことが起こったというだけのことを示しているのだと僕は思う。要するに、自分が飛び出したら自動車の方がよけてくれると信じているのだ。その信じていたことがそのまま生じなかったことの驚愕と脅威である。
なぜそう信じるかというと、ヴァーチャルの世界では主体は衝突しないからである。対象が突っ込んできても対象の方がよけてくれるからである。そういう世界に馴染んでいるのだと僕は思う。
だから一度くらい自動車にはねられた方が彼らのためにはいいのだ。現実の世界では衝突するのだ。そして当たると痛いのだ。自分がはねられた立場であっても、罪は自分の方にあるということになるかもしれない。怪我をしたから被害者だとは言えないのである。
僕は単純にヴァーチャル世界に生きている人たちだと考えている。犯罪心理の専門家は自己顕示、示威などで説明する。コロナのストレスも持ち出してくるけれど、それはどうかな、煽り運転自体はコロナ以前から取り沙汰されていたことでもあるので関連があるとも僕には思えない。犯罪心理の専門家の言うことももっともであるが、僕は彼らの自己がそこまで成熟しているとも思えない。もっと単純な人たちではないかとさえ思っている。自分を顕示させようとか、自分を示威してみせようとか、そんなことを思うほどの自己すらも形成されていないのかもしれない。自己もまたヴァーチャルな存在なのではないかと思っている。
しかし、つまらん世の中になったものだ。コロナがなくても同じようなことを僕は言っていただろうと思う。でも、言うのはこのサイトだけだ。SNSなんかではモノを言わないし、そもそもそういうものに手を染めない。
静かに生きたい。周りが騒々しすぎる。これは文字通りの意味である。歌ったり喚いたり、大声で盛り上がったり、大きな声で通話していたり、騒音、雑音が多すぎる。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)