2月14日(日):今週を振り返って
しばらくブログを書いていなかった。他の事で時間を取られるためだ。この一週間のことを簡単に振り返っておこうと思う。
先週辺りから持病のツーが出てきた。土曜日だったと思う。その前の2,3日はトイレの回数が極端に減ったのを覚えている。それが堪えたのだと思う。
今回のツーはけっこう激しい。一週間経っても発作の腫れが収まらない。
ツーはともかくとしても、そのために歩行や移動に時間と労力が今までよりも余分に要されるので、要領は悪く、体力は消耗し、多くの作業に支障が出る結果となった。
ツーにも関わらず、お酒を飲むことはあった。
いつだったか、Z君とばったり会った。少しだけ一緒に飲んだ。Z君は昔の飲み友達で、当時、彼は無職だった。金がないというので、何度か、僕は彼を運転手として使った。彼を呼び出して、僕の家まで車で送らせて、少々だけど謝礼を渡す。そういうことをしたことがある。ガソリン代と多少の酒代にでも充ててくれたらいいと思った。
最後に会った時、彼は確か就職活動か何かをしていた。いや、新しい職の研修中だったかな。いつもと違って、バリッとしたスーツ姿だったのは覚えている。
あれから8年ほど経っているか。今は何をしているのかとZ君に尋ねると、彼は、今はタクシーの運転手だと言う。ひょっとしたら、僕が彼に影響を与えてしまったかもしれない。
お酒と言えば、もう一日だけ飲んだ日がある。
去年から、ちょくちょく飲み屋で顔を合せるようになったOさんという男性がいる。見るからに友達のいなさそうな感じの人なので、いささか可哀そうにも思い、僕の方が年下ながら、いろいろOさんには話しかけたりして、一緒に飲んだ。Oさんもそれなりに嬉しく思っているようだった。
ツーの発作が出なければ、今週はその飲み屋に顔を出そうと思っていた。先週、先々週とご無沙汰しているので、心配でもしてるんじゃないかと思ったからだ。
結局、予定通り、その店に行く。ツーの発作だろうと何だろうと、決めた予定はこなす。
店に行くと、Oさんの姿はなかったが、案の定、Oさんが気にしていたと言う。僕がしばらく顔を見せなかったので、彼が嫌われたんじゃないかと気に病んでいるらしい。たまたま忙しくて来れなかっただけなんやと僕は弁解し、今度、Oさんに会った時はそう伝えてほしいと店の人に言っておいた。
木曜日だったと思う。祝日だった。家を出るとすぐに新聞の勧誘員に捕まった。
男子大学生のアルバイトだった。一週間、無料で新聞を入れさせてくれと、彼は頼んでくる。僕は要らないと答えるが、ここが最後なんですと悲壮感を漂わせて訴える。どうやら、町内を片っ端から勧誘に回って、どこからも断られ続けているらしい。一軒も契約が取れていないのだと言う。
それはそうだ。紙の新聞は現在は売れないのだ。記事自体はネットで見ることもできるし、その方が手軽だったりする。古新聞の処理もしなくていいし、その記事を保管しておけば、スクラップの手間も要らない。
この学生さんは可哀そうだ。粗品を渡して、一週間無料で入れるというそのやり方は、30年くらい前なら普通に通用していたけれど、今はもう無理だ。現に、無料でも要らないということなのだから。もし、彼に同情して、一週間だけの契約を取るとする。彼はそれでノルマを果たしたことになるし、ペナルティもない。しかし、彼の雇い主側に、上の人間に、まだこのやり方が通用するなどという思い込みをさせてしまうと、再び彼のような人が出て来るし、彼もまた同じような体験をすることになる。
僕は彼に言ってやった。そんなやり方をしている上の人間がダメなんだ。契約が取れなくて、ペナルティが課せられるくらいなら、そんな将来性のない職場なんか辞めちまえ!っと、思わず言ってしまったが、それが本音だ。
アドラー心理学がブームで、ある人と話し合う機会があった。アドラーもフロイトと同様、後の心理療法に大きな影響を残しているが、僕はあまり好きではない。
ユングがタイプ論を考察するきっかけになったのもフロイトとアドラーだった。事例検討会で、フロイトはフロイト流の解釈をし、アドラーはアドラー流の解釈をして、同じ一つの事例なのに、まったく異なる解釈がなされたのだ。お互いに自説を譲らず、議論は白熱していくのだが、ユングはどちらも正しいことを言っているように聞こえたと言う。おそらく、ここではユングが一番正しいと僕は思う。
フロイトもアドラーも、どちらも正しい一面を含んでいる。どちらかだけが正しいということはあり得ない。また、フロイトは過去志向でアドラーは未来志向だといった分類も正しくない。アドラーはその技法論においても過去を無視していないし、けっこう、過去重視の考え方をしている(詳しくは『子どもの劣等感』等を参照のこと)ことが窺われる。
フロイトは、確かにヒステリーや神経症の「原因」についての考えを有していた。フロイトは医師だったのでそういう考え方をするのだろう。しかし、アドラーもまたアドラー流の「因果論」を有していた。それで、両者はけっこう共通したことを言っているし、案外、同じことを別の側面から見ているだけなのかもしれないと、そう思うこともある。
フロイトがエディプスコンプレクス、去勢恐怖といった観念で述べていることと、アドラーが劣等感、過剰補償といった観念で述べていることと、一体、どれほどの隔たりがあるだろうか。
また、両者の立場には差異があり、そのことの方が無視できない。フロイトは最後まで患者さんと会い続けた臨床医であった。アドラーは、後半はクライアントと会うことなく、研究と執筆、講演で生計を立てていたと言う。フロイトは医師だが、アドラーは教師といったイメージである。フロイトはあくまで患者の内面の出来事に焦点を当てていたが、アドラーは育児や教育など、患者を取り巻く環境にも光を当てていたように思う。フロイトは治療に、アドラーは啓蒙に、それぞれ専念していたように思う。
音楽はあまり聴いていない。
本はチャーチルの自伝と「葉隠」を読んでいる。専門の方面では論文をいくつか読む程度だった。
徹夜、もしくはほとんど徹夜をした日が二日あった。けっこう堪える。パソコン作業に追われている。
仕事は、今週は平均並みの仕事量だった。来週は少し減りそうな感じだ。月に一度は来る「ヒマ週」になりそうである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)