2月12日(日):分かって欲しいこと
ここ数日のクライアントのことで落ち着かない気分を体験している。今日はいささか集中に欠ける一日だった。
やり場のない怒りを表明されるのは構わないが、それを僕のせいにされても仕方がないことである。つまり、「私が良くならないのはあなた(僕のこと)のせいだ」と言わんばかりに責められても、こちらはどうしようもないのだ。責任転嫁もいい所である。
その人が「良く」ならないのは、自身を放棄されているからでしょう。誰かが何とかしてくれるという期待があるのかもしれないけれど、どんな場面でもそういう期待はまず粉砕されることだろうと思う。自分が何とかしなければいけないのだということに、どうにか気づいて欲しいものである。
思えば、待っていれば与えられるという期待は乳児期のものである。乳児はそこで待っていればお乳が与えられるわけである。人はこの段階を抜け出さなければならないのである。当然のことでありながら、それを本当に理解している人は案外少ないかもしれない。手に入れたい物があるなら、望んで待っているだけではやはりダメなのだ。自ら獲得しに行動しなければならないものである。
どうも内面が騒ぎ立てているので、書くことが辛辣になってしまいそうだ。本当に分かって欲しいと僕が思っている所に、クライアントはなかなか目を向けようとしないものである。その人にどうやってそこに気づいてもらうかが、今の課題である。
しかし、カウンセリングを受けると楽に生きられるようになるとか、素晴らしい人間になれるなどというイメージはどこから生じたものだろう。そういう人が意外と多く、それで僕のカウンセリングを受けて、思っていたのと違ったなどと憤慨するのである。僕はこのサイトでもそのようなことを書いた覚えがないのだが、僕が間違っているのだろうか。
僕はバートランド・ラッセルの次の言葉を思い出したね。「事実、大多数の人間が愚かであることを考えれば、広く行き渡った信念は、賢明であるよりも愚劣であるほうが多いのである」(『ラッセル結婚論』岩波文庫p61)
世間一般に信じられていることや期待されていること、流布していることなどは、まず愚かしいものだと思うといいだろう。我々が愚かな存在であれば、愚かな我々は愚かな考えに親和的になるだろうと思う。
カウンセリングでクライアントが楽になったと言う時、それは不要な苦悩が無くなったということである。生きている限り、苦悩は絶えないものである。そうした生きていく上で当然抱える苦悩までもすべて魔法のように拭い去ってあげると謳っている臨床家がいるとすれば、間違いなくインチキだね。僕は僕のクライアントの誰一人として、苦悩のない人生を送って欲しいとは思っていない。苦悩に取り組み、苦悩がありながらも自身の幸福を追求できるような人になってもらいたいと思うね。
僕は、僕の個人的な偏見では次のように考えている。人間が死にたくなるのは、その人の抱えている苦悩があまりに大きすぎるか、あるいは人生に意味を与えるべき苦悩が何一つその人にないか、そのどちらかだと思う。
また、カウンセリングを受けて、その人が素晴らしいと思える人になっていくことも多々経験するところである。しかし、人はそれぞれその人の中に素晴らしいものを持っているはずである。これが僕の一番の前提である。それが活きてくれば、その人の素晴らしさが現れてくるものである。しかし、自分の中の良い物を等閑にして、どこか遠くの方にある素晴らしいものが手に入らなかったなどと言って憤慨するのは、本当に愚かしいことだと僕は思う。
僕がクライアントに望むことはたった一つなんだ。クライアントにその人自身になってほしいだけなんだ。別人になって欲しくないし、他人の人生を生きて欲しくないだけなのだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)