2月1日(水):時間
結局、昨日は高槻には出なかった。今日、隣の工事がどうなっているか楽しみに思いながら出勤した。予定では一月いっぱいで終了することになっていたからだ。
職場に着くと、いささか失望した。工事は終わっていないのである。今日もしきりと騒音を撒き散らしている。まあ、工事の工程表なんて、この程度かもしれない。
だいぶん解体も進んでいるが、いよいよ基礎の部分に取り掛かっているのか、今日は朝から振動がひどい。騒音プラス振動という、ダブルダメージを受けている。いい加減にしてほしいものだ。
さて、今日から2月であるが、年が明けてから、まだ一か月しか経過していないのかと思うと、いささか愕然とする。一か月の間に、なんだかいろんなことが起きたなあと感じている。初詣も熱で寝込んだのもそうだし、徹夜したのが7日ほどあるし、Yさんと歩いたのもそうだ。「自由連想」で、すでに原稿用紙一冊書ききっているし、本も四、五冊読んでいる。このブログやサイトの原稿もいくつも書いているし、その他の雑務もけっこうたくさんこなした。もちろん、面接など、日常の仕事や作業も普通にある。
時間を意識すると、いろんな発見がある。たとえ一時間でも非常にたくさんのことが出来るということに気づく。最近、作業をする際に、タイマーをセットする。一時間単位で作業をしている。すると、一時間というのは、けっこう長いものだということを改めて知る。その間に非常に多くのことができるのである。
一時間でけっこういろんなことができるなと感じつつ、一方で、「時間がない、ない」などと焦っている自分もある。確かに時間はいくらあっても足りないように感じられている。巨視的に見ると、時間は足りなくなるようだ。微視的に見ると、一時間でも多くのことがこなせるということに気づくようだ。時間とは本当に不思議である。
これも年をとってきたことの証拠だろうか。時間が非常に貴重なもののように思えてくるようになった。若い頃よりも時間を意識することが多くなったのだ。何かをしても、何もしていなくても、時間は同じように過ぎていく。過ぎていく時間は無情である。過ぎていく時間の中で、少しでも前に進みたいと思うようになり、何かを蓄積していきたいと強く思うようになっている。暇つぶしの時間なんて、今の僕には考えられなくなっている。
その中でも貴重な時間がある。クライアントと過ごす時間は、今の僕にとって宝のようなものである。この時間を、以前よりも大切なものと考えるようになっている。親しい人と過ごす時間も同様だ。こういう時間を過ごせる僕は幸せなのかもしれない。
「うつ病」と診断されたような人と会っていると、僕は時間について考えてしまう。彼らはどんな時間の世界に生きていることだろうか。「うつ病」の人にとって、時間は拷問具のようなものかもしれない。
僕もかつてはそういうのを体験したことがある。夜、眠る時に「明日なんて来なかったらなあ」とか「このまま目覚めなければいいのに」と思い続けた日々があった。その頃、時間は苦痛の種であった。苦悩と苦痛に満ちた時間だけが無限に目の前に広がっているようだった。こんな時間を誰が僕に与えるのだと、よく分からない対象に恨みを吐いたものだった。今の僕からはとても信じられないことなのだけど。
さて、分量的にもノルマを達成したので、今日はこれくらいにしておこう。因みに、本日分のブログ、書き始めから書き終わりまで、所要時間15分だった。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)