2月1日:新たな月を迎えて

2月1日(土):新たな月を迎えて

 今日から2月だ。新しい月を迎えて心機一転の気分で仕事に励もうと思う。そう勢い込んだ矢先に、朝一番のクライアントがキャンセルとなった。家族にちょっと不幸があったらしい。仕方がない。その人も大変なのだなと思う。
 それで、午前中は時間が空いたので、今週来られたクライアントたちの面接記録を丹念に書くことで過ごした。そういえば、このところ、忙しいと言っては記録が雑になっていた。もっと丁寧にしなければと思いつつも、時間に追われ、つい疎かになってしまう。
 記録を書く。一人一人のクライアントのことが思い浮かぶ。時にはその面接時のテープを聞き直す。クライアントの語りに合わせて、僕も語ってみる。少しでもその人に近づきたいと思うからだ。
 個々のクライアントのことを僕は学ぶ。同じように、個々のクライアントから僕自身を学ぶ。後になって気づくこともたくさんあり、自分の鈍感さが不甲斐ない。その一方で、その時それが気づかれなかったのはどうしてなのか、僕の何がその妨げになったのかを考えてみる。気づくことは、僕が僕自身に囚われすぎている瞬間にそういうことが生じるということだった。
 クライアントはやはり大切な存在だと今の僕は感じている。彼らから教えられるというだけではなく、さまざまな体験を僕にもたらしてくれるからだ。それに、本当なら僕が彼らのようなことを体験していたかもしれない。僕はたまたま彼らがしているような体験からは免れているだけで、僕が彼らの立場にあってもおかしくないのだ。そう思うと、彼らは他人ではなくなる。彼らの現在体験している不幸と僕は無関係ではなくなる。彼らが自分のテーマに取り組むとき、やはり僕も同じものに取り組んでいる。
 僕自身は、今では、昔経験したあの苦悩からは幾分でも解放されている。こんな言い方は誤解を招きそうだが、その意味で僕はクライアントよりも一歩進んでいる。たまたま僕の方が早い時期にそれに取り組んだというだけの違いなのだが、僕が経験したようなことをこれからクライアントが経験するようになるかもしれないと思うと、やはり力を貸してあげたくなる。そのプロセスに同行したいという気持ちになる。
 今月もどれだけのクライアントたちと出会えるだろうかと、今から期待に胸が膨らむ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 僕にそうした共生観念がある限り、僕は大丈夫だと思える。「心の病」とは、共生の観念の喪失なのだ。すごく大雑把な言い方ではあるが、共に生きていこうとする気持ちが生じないのは、その人が生きていないからである。僕はそう考える。
(平成28年12月)

 

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