12月8日(金):生活と臨床におけるパンセ集(4)
(4A)発展
ニュートン物理学から相対性理論へ。この時、宇宙に関する学問は大きく発展した。何が大きく異なったかと言うと、それは宇宙に関する仮定、前提の部分であるそうだ。
人間も同じではないだろうか。私に関する仮定や前提、つまり私自身によって私の中に定位されている私に関する前提が変わっていくことだ。それが私の発展を生み出す。
(4B)脳神経
人間の行動は脳や神経では十分に説明できない。人間の一つの行動を生み出すために、少なく見積もっても何万もの脳細胞が働き、多数の神経系が作用しているだろう。一つ一つの細胞の働きを記述することなど、学問的には面白いかもしれないが、人間理解には何の役にも立たない。
(4C)平等と均質
平等であることと均質であることとを混同する人がいる。我々は機会において平等性が保証される必要があり、私もそれが望ましいと思う。しかし、それは均質でなければならないということを意味しない。
均質であるとは、要するに、誰もが同じ力を持ち、同じ体型をし、同じ顔をし、同じ言葉を話し、同じ考えをするということである。すべての人の持てるものがすべて同じであるという状況である。これはクローン人間の世界である。
あの人には力があって、私にはそれだけの力がない、こういう場面があるとしよう。それでも私はあの人と同じ試験を受けることができる。私とあの人とは、均質でも同等でもないが、平等である。
人が均質でないということで嘆く人がどれほどいることだろうか。
(4D)パワハラ訴訟
上司のパワハラを受けている人が弁護士に相談した。弁護士はその訴えを却下した。彼は怒り心頭に達していた。
彼はそれはパワハラだと主張するが、上司は「指導」だと主張する。現状では上司の言い分が通りそうである。なぜなら、誰がどう見ても彼の方が「指導の必要のある人」であるからだ。
あまり彼個人のことは書かないようにしよう。彼の勤務状態を見ると、「この人に指導してあげた方がいい」ということにほぼ全員が賛成するだろう。彼はそういう状態に現在陥っているのである。
この状態で戦おうとしても無理である。「指導の必要な人に指導をした」と言い逃れされるだけである。尚悪いことに、その指導が厳し過ぎたとしても、それだけの指導が必要な人として彼は映ることだろう。
彼が上司を訴えるとすれば、それは「指導の必要のない人に対して過剰な指導が施された」という形にしなければならなくなると思う。彼が指導の必要な人間であり続ける限り、彼の勝訴はあり得ないかもしれない。
要するに、相手と戦うのであれば、自分の方に落ち度があってはダメだということだ。落ち度があるうちは争いを仕掛けてはいけないのだ。まず、自分の落ち度が修正されなければならないのだが、彼はその段階をすっ飛ばしてしまう。
(4E)メメント・モリ
誰も永遠には生きられない。どこかで死を迎える。私も同じだ。私は私がいつか死ぬということを確実に知っている。でも、それがいつのことであるかを私は知らない。そこに私の不安が生まれ、私の生が生まれる。
私の死は予測がつかない。ずっと先であるかもしれないし、明日かもしれない。今日、これを書いた後にそれが訪れるかもしれない。私は私の死を意識せざるを得ない。哲学とは死の準備をすることだとソクラテスは言うが、その意味が最近分かりかけているように感じる。
(4F)神経症者
神経症者(心を病む人)にとって、一番してほしくないと彼が望むものが、一番適切な治療法であることもある。
彼にとって、もっとも望ましくない状況が、彼の治癒にとってもっとも必要な状況であることもある。
(4G)内科と外科
内科と外科。内科は内科疾患を扱い、外科は外科疾患を扱う。加えて、内科は内科的な手段を採り、外科は外科的手段を採用する。極めて当たり前のことであるが、心理療法では無視される部分である。
対象に基づく定義をすれば、心理療法は心を病む人に対して施される治療法である。相手が心を病む人であれば、薬物療法もカウンセリングも、各種の作業療法やアニマルセラピーでさえもすべて心理療法に入る。
一方、手段に基づく定義であれば、心理療法は心理的な手段によって施される治療法であるということになる。対象が心を病む人であろうとなかろうと、ここでは関係がない。心理的手段とは、対話とかコミュニケーションであり、認知(知情意など)であり、関係などである。
後者の定義を見落としている人のなんと多いことか。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)