12月6日(火):孤独と人々
先日、久しぶりに会った知人から、「また痩せたんとちがう?」と言われた。確かにまた痩せたかもしれない。今、健康的なことではないのだけれど、不規則な生活を送っていて、晩御飯を食べるのを忘れる日が何日かあった。夜、布団の中で「そう言えば、晩御飯がまだやった」と思い出す始末である。こんなことをしていれば痩せるのも当然と言えば当然である。
その知人からも、クライアントからも、「よく独りでやってますね」と言われる。「独り」であることのどの部分にたいへんさを感じておられるのかは、彼らの間で違いはあるだろうと思う。確かに、たいへんなこともある。誰かに「ちょっとこれやっといて」などと頼めないのである。全部自分でやらなければならない。甘えられないのである。楽な一面もある。全部自分の都合でスケジュールが組めるというのが利点である。ただし、一日サボれば、それは後日自分で埋め合わせなければならない。全部自分に返ってくるのである。そういうたいへんさというのは確かにある。
しかし、独りでやっていて、孤独ではないか、淋しくないかと言われれば、それほどでもないと僕は答える。現実に僕が独りでいるとしても、僕の中にはこれまで関係した人々や今現在お会いしている人々の存在があるからである。さらには、これから出会う可能性のある人々のことも僕の中で占めている部分がある。この人たちがいる限り、現実の別れは僕にとってはそれほど苦にならない。
このサイトのアクセスデータを毎週送付してくれと業者には頼んでいる。彼らは時々それを忘れるので困るのであるが。一週間のアクセス数を見て、僕はそこに数字以上のものを見ている。この数字の向こうには、この数字を構成している人間の存在があるわけであり、この人たちの存在を僕は感じられなければならないと思っている。僕にとっては、これはただの数字ではないのである。この数字は人間の数なのである。しかも、何らかの形で、多少なりとも僕と関わることになった人たちである。こういう人たちの存在もあるのに、どうして僕が孤独であろうか。
人が孤独なのは、その人の中に関わるべき存在が一人もいないからである。ある人がゴロゴロ、ダラダラした日々を送ってしまうのは(僕も時々それをしてしまう)、その人が誰のためにも生きることができていないためである。
昔に比べると、僕は孤独感に苛まれることがなくなってきた。しかし、人は求めている。出会える人を求めている。それは僕が孤独だから求めているのではなくて、その人がまた僕に何かを教え、僕の何かを変えてくれるだろうからである。僕は、もちろん自分自身の体験からも周囲の人からも多くを学んだけれど、クライアントから教えられたこともたくさんある。学びが得られるのは、本当に幸せなことだと思う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)