12月4日(日):人間万事塞翁が馬
昨日のことで悶々としつつ、目覚める。母に少しそのことを話してみた。母親というものはありがたいもので、僕が悪人でないことを母は信じてくれている。嬉しい限りである。
その後、出勤する。電車の中では速読の練習をするのだけれど、今日はそれができなかった。と言うのは、「人間万事塞翁が馬」(にんげん ばんじ さいおうがうま)という言葉が、なぜか頭の中を駆け巡っていて、本に集中できなかったのである。
職場に着いて、一番に故事・ことわざ辞典でこの言葉を調べる。僕の持っている辞典では次のように説明されている。「人生の災いや幸福は変転極まりないもので、予測しがたいものである。災いも悲しむにあたらず、幸福も喜ぶにはあたらない」ということが書いてある。
さらに、このことわざの由来が記されている。それによると、昔、中国の胡(こ)との国境の塞(とりで)近くに住んでいた老人の馬が逃げてしまった。隣人がそれに同情すると、老人は悲しむには当たらない、どんな幸福がやってくるかもしれないと失望しなかった。その後、馬は一頭の駿馬を連れて戻ってきた。隣人がそれを喜ぶと、老人は災いとなるかもしれないと言った。すると、今度は老人の息子がその馬から転落して足を折るという不幸を経験する。一年後、戦争が起こり、多くの若者が戦死したが、この息子は足が不自由だったために戦争に赴かなくて済んだ。こういう故事から「人間万事塞翁が馬」と言われるようになったらしい。
読んでいて、なるほどと思った。僕はこのエピソードをこのようにも解釈している。今、現在の不幸の中に、次に来る幸の芽が既に生まれている、同様に、現在の幸福の中に、いずれ来る不幸の芽が既に生まれているということである。昔の中国の人は、幸福と不幸の二元論で考えていなかったのかもしれない。
僕が彼らと知り合った瞬間から、今回の不幸の芽が生まれていたのだと僕は思い至る。そして、昨日の悲しみの中に、次の喜びの芽がきっとあるはずだと思うようになった。
僕は罪悪感に駆られていたが、この罪悪感ほど罪悪なものはない。それは人間を過去の一時点に縛りつけるからである。何ともバカバカしい自分であったことかと思う。
いずれにしろ、彼らに今更詫びてもどうしようもないということが、今の僕には理解できている。このような結果が既に出ているのだ。ただ、その結果に僕自身が満足できず、自分自身が楽になるために詫びようとしているに過ぎない。彼らにしてみれば、僕のしようとしていることなど、余計なことである。縁を切って、詫びの代わりにすればいいことである。それで彼らが僕をどう思おうと、彼らの自由である。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)