12月29日(金):生活と臨床におけるパンセ集(6)
(6A)IT業者と臆病者
IT業者によるとカウンセラーを探している人がとても多いらしい。僕は知らないけど、きっと一人一人にアンケートでも取ったのだろう。まあ、それはどうでもいいことだ。
僕が腹立たしいのは、カウンセラーを探している人たちと僕のサイトとが結びつかないのは僕のサイトが悪いらしいという指摘だ。カウンセラーを探している人たちがカウンセラーと出会わない責任が僕の方にあるみたいな言い方をされるのが腹立たしいのだ。
僕から言わせれば、カウンセラーを探している人は一生探し続けるものだ。分かりやすく言うと、その人たちが臆病だからである。
臆病がって動き出さないままでいるうちに年月は過ぎ去り、問題はますます大きくなり、症状は進行する。動き始めた時は手遅れだ。でも、それはその人たちがそうしているのであって、その責任まで僕に被せられるのは御免蒙りたい。僕は僕の人生以外の責任を背負うつもりはない。ましてや会ったこともない人の分まで背負うつもりはまったくない。
(6B)神経症的取り組み
人は自分自身を良くしよう、治そうと試みる。健全な人の取り組みと神経症的な人の取り組みの違いを述べよう。
健康な人は数学者になるために数学の勉強を一生懸命にする。神経症的な人は数学者になるために考古学の勉強を一生懸命にする。その違いだけである。才能や努力に違いがあるわけではない。見当違いのことばかりをし続けるだけなのだ。
だから彼らは言う。何十年も考古学を勉強してきたのに、どうしても数学者になれないんですと。自分が何をしてきたのかを本当には知らないのだ。
(6C)治らない
治そうとして無関係なことをすること。
治すために治らないことをすること。
治す努力をして、それが治らない努力であることに気づかないこと。
治らない人にはそうした欺瞞がある。
(6D)選択
例えば食事に行こうとする場面。「何を食べたい?好きに選んでいいよ」「和食でも洋食でも、どちらでもいいよ」
こういう言葉がけは自分が愛されていない証拠と受け取る人たちもいる。「好きにしていいよ」「どっちでもいいよ」「何でもいいよ」、すべて自分が突き放される言葉として受け取る人たちだ。自由に選んでいいという状況は、通常なら喜ばれるところだが、この人たちはそれが逆転する。
こういう人には選択肢を与えない方がいい場合もある。「僕は君と一緒にラーメンを食いに行きたい」と言った方が、「この人は私と一緒にラーメンを食べに行きたがっているのだ」と相手は思えるわけで、自分が愛されていると感じることもあるようだ。
(6E)対人恐怖
いわゆる対人恐怖者は、自分が人から嫌われると信じているが、それは間違いなのだ。彼らは確実に嫌われているのだ。嫌われる要素がその人にはあるのだ。相手がそれに反応して、その人にある種の態度を見せるのだ。相手のその態度を見て、彼は対人恐怖を発動させるのだ。そして自分の対人恐怖が問題だと彼は考えるのだけど、大間違いである。彼が人から嫌われるような何らかのことをやってしまっているのだ。相手との関係で、彼の方が先にやってしまっているのだ。彼はそれに気づいていない。
例えば、今、自分は嫌われたのではないかと不安に襲われる人があるとしよう。相手に対する猜疑心は、相手の側にではなく、この人に先に生じるのだ。その猜疑心が現実に相手からの嫌悪を引き出してしまう。
(6F)動機
私を動かすのは私の動機である。脳ではない。また、意志は方向づけるけれど、力を持たない。
達成に動機づけられれば、私は達成に向かってひたむきになるだろう。失敗に動機づけられれば、失敗に向かってひたむきになるだろう。
自分が変わるとは、自分を動かしている動機の性質が変わるということでもある。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)