12月27日(木):以前のクライアントが訪れる
昨日、以前のクライアントがひょっこり遊びに来てくれた。一緒に飲みに行った。彼とはそういう関係だ。一昨年に通ってくれた男性クライアントだ。僕をとても信頼してくれた人だし、彼自身、その当時はすごく頑張って生きた人で、僕も彼が好きだ。大阪を出て、遠方にて人生をやり直している人だ。僕は今後とも彼を応援したい気持ちでいる。
年末年始になると、以前のクライアントが便りをくれたりする。彼のように実際に会いに来てくれる人もある。僕としては嬉しい限りだ。みんなカウンセリングから離れて、自分の人生を送っていることが分かる。人それぞれ生き方があると思うので、それは本当に望ましいことだ。僕も励みになるし、彼らを師として仰ぎたいと思うこともある。クライアントはみな立派だ。
カウンセリングをやってうまくいかなかった人もある。僕の方でも心残りやしこりを残しているクライアントもある。僕のことを恨んでいる人もきっとたくさんおられることだろう。生きている限り、誰かから恨まれてしまうのは仕方がないことだと自分でも諦観している。できることなら、僕のことを恨んでいる人のそれぞれがどこかで、僕以外の人との関係において、その憎悪を解消してくれることを僕は望んでいる。僕が彼らの憎悪から解放されたいから言うのではない。まあ、正直に言えば、多少はそういう気持ちもある。やはり恨まれるというのは気持ちのいいものではないからだ。でも、それ以上に重要なことは、憎悪を抱えて幸福になれる人なんていないということなのだ。彼らもまた幸福になって欲しい、そういう気持ちが僕にはあるだけなのだ。
昨日の彼もまた一時期は激しい怒りを抱えて生きた人だ。とても苦しい日々を生きた人だ。でも、彼はそこから抜け出している。いや、今後ともそれは彼のテーマになるだろうと思う。彼は僕の書いたものを読んでくれている。だから、きっとこの文章も彼の目に留まるだろうと思う。だから、昨日、言いそびれたことも書いておこうと思う。
怒りとか憎悪とかいう感情は、その人を人生の一時点に拘留してしまう。そこから前へ進むことができなくなるのだ。そして、あの時、あの人のせいでこうなったという感情に囚われてしまうのだ。そういう人のことを不幸だと僕が思うのは、その人が誰かから虐げられたからということではないのだ。その人が憎悪を抱えることになったその一時点に縛られて、その時点に留まったままその後の人生を送っているということが不幸なのだ。
ところで、怒りや憎悪というのは、しばしば形を変えて現れることがある。自己憐憫は憎悪の偽装だと僕は考えている。虐げた相手を憎悪する代わりに、虐げられている自分を憐れむわけだ。でも、憎悪を抱える人も自己憐憫に陥っている人も、どちらにも共通することは、彼らは人を愛せないということなのだ。いや、人だけではない。世界や自然でさえ愛せないのだ。僕は何人もそういう人を見てきたから、これは事実だと思う。
つまり、その人の愛情能力が回復するということが、憎悪の問題にとっては、とても重要な事柄になるわけだ。昨日、彼に会っていて、僕は彼がその方向に進んでいることを実感して、とても嬉しく思った。彼はきっと過去を克服していくだろうと、僕は信じている。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)