12月26日(月):女性友達に捧げる(16)
前回の<15>を書いてから、女性友達とのことを考えることが苦しくなくなってきた。どこか楽になった感じがある。そこに一つの大切な洞察があったからだろうと思う。「心の問題」というものは、それに関して正しい理解が得られると、それが「問題」でなくなっていくものである。そのことはよく経験するところである。そして、「問題」でなくなっていったということが、その洞察の正しさを証明するものである。
恋愛にしろ、パートナーシップにしろ、お互いに安定していなければ成り立たないものだと僕は考えるようになった。片方が不安定でも上手くいかないものである。こちらは自己の相当な部分を相手に据えることになる(つまり大量のリビドーをカセクシスする)わけだから、相手が安定してくれているということは、自己の置き場がしっかりすることになる(つまりカセクシスされたリビドーとリビドー対象が一つの位置を占めてくれている)。このことはこちらに安定した感情をもたらす。一方、相手のためにも、こちらは一つの対象として位置づけられなければならないわけである。だからこちらも安定していなければならない。
こんな風に言ってもいいだろう。お互いはお互いを満たし合う容器のようなものだと仮定する。自分の中に有るものが相手の容器を満たすとしても、相手のその容器がフラフラしていたり、脆かったり、見当たらなかったりすれば、こちらは何も与えることも満たすこともできないものである。お互いが満たし合い、満たされ合うためには、各々の容器がしっかりと安定していなければならないということである。
1月1日に交際が始まり、1月の後半に僕は日記をつけ始めた。彼女とのことを書いた日記である。なぜ、こういうものを書こうという衝動に僕は駆られたのか。振り返って思うのは、一つには彼女のことがどうしても分かりにくいと感じていたからである。この分かりにくさは何だったのだろうか。彼女は何かを話しているようで、肝心なことは話していないような感じを僕は受けていた。自分を隠すための自己開示だったのだろうと思う。そもそも、彼女はそれほど自己開示をしていただろうかとも思うのだが。
もう一つは、やはり僕自身の何かがうまく彼女に届かず、いわば空振りしているような感じがあったからである。そのことで結構悩んだ記憶がある。彼女に対しては上手く言えないし、上手く伝わらないのである。初めの頃は、僕が口下手で、しかも好きな人の前で緊張してしまうからかな、などと考えていたのだけど、どうもそれだけではなかったように思う。この疎通の困難さは、僕の側にも要因があったのは確かだけれど、彼女の方にも何かがあるはずである。
彼女の方の「何か」は僕には分からない。恐らく、前の男のことだろうとは思う。
僕の方の「何か」はたくさんあり過ぎて、一言では言い切れない。一つは、僕にとっては女性との交際はすごく久しぶりのことだったので、何とか上手く関係を築きたいと思っていた。必要以上に僕は熱心だったのかもしれない。カウンセリングでもそうなのだけれど、僕が相手に熱心になったり真剣になりすぎたりすると、相手は負担に感じるようである。彼女もそれを感じていたかもしれない。何とか分かろうと考えていたので、普通の会話ができなかったのかもしれない。
このまま続けると分量が多くなりそうなので、続きは後日記すことにする。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)