12月26日:イラショナルビリーフ論考
今日来られたクライアントがイラショナルビリーフのことを話した。講習か何かで学んだらしい。これは論理療法に使われる言葉であり、「非論理的思考」と訳されるものである。この思考に関する概念は広まっていて、割とポピュラーになったという感じがしないでもない。
非論理的思考というのは、「~すべきだ」といった類の思考であると、そのように理解している人も多いようだ。これは半分だけ正解である。
個人的には「非論理的思考」という言葉が誤解を招いているように思っていて、これは「思考の非論理性」とした方が誤解が少なくなると僕が思う。
何が違うかと言うと、「非論理的思考」と言う場合、その非論理的な思想が問題であるという印象を与えてしまう。「思考の非論理性」と言えば、その思想に含まれている非論理の部分が問題であるということが印象付けられる。
従って、「~すべきである」という思考様式は、その思考が論理的であれば正解なのである。
例えば、「夫婦とか家族に関係のあることは夫婦二人で話し合って決めるべきだ」という妻の思考があるとしよう。この「べき思考」は非論理的であるだろうか。
一般の人はまず、この「べき」に拘束性を認める。拘束することが良くないと考えている(これこそ非論理である)人ほどそうだろうと思う。しかし、この拘束は両者に課せられることになるので平等なものである。
夫が何か大きな買い物をしたい時には妻に相談する。同じように妻が大きな買い物をしたい時には夫に相談する。条件は等しいものである。そして、ここでの話し合いがどれだけの公正さを保っているかどうかということは、別の話になってくる。
次に、ある思考が論理的であるか非論理的であるかを決定する一つの目安は、その思考によって何が目指されようとしているのかということである。つまり、実現したい目標に対して論理的か非論理的が決定される部分があるということである。
もし、この妻が夫に干渉したいだけであるなら、あるいは夫との関係を密にしたいというだけなら、こうした思考はほとんど意味をなさない。彼女の思考というか願望は夫には通じないだろう。この思考は理不尽なものになってくる。しかし、家庭を維持するために妻も家庭内の決定には積極的に参加した方がいいと考えているのであれば、この思考は論理性を持ってくる。
今の話は、結局は、思考の論理性というよりも、目標の論理性ということになろうか。目標が非論理的であればそのための思考も非論理的になるかもしれない。
今日のクライアントもそうなのだけれど、一部分だけあるいは表層だけを限定しすぎるのである。ある思考様式が論理的であるか否かということは、その思考の内容だけでなく、その人の動機や目指しているものなど、広い文脈の中でしか捉えることができないのである。
さて、ではどうして一部分だけしか取り上げることができなくなるのか、表層だけしか見えなくなるのか、そういう話を展開したいところなんだけれど、そっちに踏み込むと延々と書き続けなければならなくなるので、この辺で終えておこう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)