12月25日(月):「論破王」? なにそれ?
最近は週刊誌などの雑誌もちょくちょく目を通す。現代のことも多少は知っておかないと、と思うのだ。すでに時代から遅れまくっている人間なので、少しくらいは追いついておかないと、などと思うのだ。
でも、目を通しても面白くはない。知らない人の話ばかり読まされる感じがする。別世界の読み物かと思ってしまうほどだ。週刊誌なんかに名前が上がるくらいなんだから、きっと有名な人たちなんだろう。
「ひろゆき」という人がいるらしい。「論破王」ということらしい。僕は全然知らない。いや、そういえば何人かのクライアントさんがこの人のことを言ってたような気もする。なんか、論破する人がいるらしいと思ったのを覚えている。今から思うと、どうも「ひろゆき」さんのことを言っていたのだろう。
その論破王の「ひろゆき」が論破されたという記事だった。どうでもええこっちゃ、と思うのだけれど、記事で読む限り、「ははあ~、相殺戦術をやるんだな」と思った。
その記事には「ひろゆき」と論客の議員さんとの論争が逐語的に抜粋されていたのだけれど、そこだけ読む限りでは、「ひろゆき」がやっているのは「相殺」である。
「相殺」とは何かということなんだけれど、自分が何か言われた時に、相手のことを何か取り上げることで、自分のことを相殺するというものだ。「君は○○だね」と言われたら、「そういうあなたは××じゃないか」と返す。「君の〇〇について話そう」と来たら、「その前にあなたの××を話すべきじゃないか」と返す。相手の何か、それも相手から持ち掛けられた議題とは無関係の何かを持ち出して、自分に向けられた発話を相殺するわけだ。こういうのは「詭弁」の一種である。
また、「相殺」の亜型として、「○○について話そう」と来たら、「いや、××について話すのが先だ」という形のものもある、と僕は考えている。いずれにしても、持ちかけられたものに対して、他の何かを立ち上げることで、持ちかけられたものを相殺していることになると思う。
実は、こういう相殺戦術は僕にはお馴染みのものなのだ。
親カウンセリングをやっていると、子供に言い負かされてしまうという親がいる。あるいは、子供は口が立つとか言って、こっちが1言うと10返されるなどと嘆く親もおられる。
一体、子はどういうことをやっているのだろう。親たちにそのやりとりを記録してもらう、もしくはラインやメールでのやり取りを僕は見せてもらう。
大抵の場合(というかほとんどすべての場合)、子がやっているのは相殺戦術である。親が何か言っても、子は他の何かでそれを相殺して、論点を煙に巻くのである。
こういう相殺戦術は小学生くらいの児童が典型的にする論法だと僕は思う。なぜ、児童が相殺戦術を多用するかと言うと、論理の組み立てができなかったり、具体的な事物から離れることができない(つまり抽象的、形而上学的な内容に入れない)などの背景があるためであると僕は思う。
まあ、あんまりこういうことを言うのも憚られるのであるが、「ひろゆき」の論法は子供っぽいのである。子供の議論のように見えてしまうのだ。
子に言い負かされる親たちの話を続けよう。この親たちは子供に辟易していることがけっこうある。子が何か言ってきた時に、それだけで重たい気分になられる母親もおられた。簡単に言えば、相殺戦術でやってくる子に付き合いたくないわけだ。
「ひろゆき」さんの論客も同じような体験をしているとすれば、論客たちは「論破」されたのではなく、単に「ひろゆき」に見切りをつけているだけかもしれない。本当は自分が見切りをつけられているのだけれど、それを「論破」と「ひろゆき」さんは誤解しているのかもしれない。
では、相殺戦術でやってくる相手にどう対処するのがいいか。方法はさまざまである。比較的容易なものからけっこうな技術を要するものまで、ピンキリである。
もっとも容易な手段は、子の話しかけに応じないというものである。相殺戦術で来るのを拒否するというものである。相殺戦術が通用しない、あるいは使えない状況を作るわけだ。
もし、子供が「話がある」と言ってきても、「あなたと話すのは無意味だ」とか「あなたと話すのは疲れるからいやだ」などと言っても構わない。そうして、子を拒絶するのではなく、子が使用する相殺戦術を封じるのである。そして、「穏やかに一つのことについて話し合えるのであれば応じる」という姿勢を保てばいい。
少し意地悪な方法ではあるけれど、相殺戦術で相手を言い負かしていくと、自分が孤立してしまうという体験を、少しばかり、子にしてもらうのである。大切な相手にそういう戦術を用いると、大切なものを失うという経験をすこしばかりしてもらうのである。そうして、その相殺戦術は間違っているということを身をもって知ってもらわないといけないのである。
さて、次に「論破」ということを考えてみよう。これは相手の理論を論議して崩すという意味になるだろうか。
僕が思うに、相手の理論の矛盾であるとか、齟齬であるとか、飛躍であるとか、そういう不整合性を指摘することによって、相手の理論を崩すことなのだろう。従って、論争の土俵は相手の理論である。相手の領域で論争することになる。
では、何のために相手の理論を「論破」するのか。僕が思う一番理想的なのは、それが相手の理論の完成ないしは推敲に資するということである。相手の理論を「論破」することによって、相手の理論の完成を助けるというものである。
もし、この目的を欠く「論破」があるとすれば、それはただの「破壊」行為に過ぎないと僕は思う。単に攻撃性を発散しているだけである。その攻撃性は愛に奉仕しなくてはいけないのである。
従って(ここで僕の結論も飛躍するんだけれど、単に書くのが疲れてきただけだ)、「ひろゆき」さんも、親を言い負かす子供も、愛を欠き、攻撃性に振り回されてしまっている人のように僕には見えるのである。もう少し正確に言うと、愛情能力の減退によって攻撃性が増加してしまい、後者が前者を凌駕している状態にあるということである。
まあ、「ひろゆき」さんにしろ、親カウンセリングの子にしろ、どちらも僕が現実にお会いすることのない人たちなので、どうでもええこっちゃ。
週刊誌なんか読んでも不要な知識ばかり増えるような気もする。せいぜい、ブログネタができる程度のものだ。それでも、もうしばらくは雑誌なんかにも目を通していこう。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)