12月21日(水):余計なこと
今日(20日)は6件ほど回る予定を組んでいる。それで朝から家を出て、方々を歩いて回っているのだけど、外の世界というのは話題の宝庫だなとつくづく思う。
例えば、今朝、駅の喫煙室で一服していた。電車を待つ間のことだ。結局、禁煙は成功していないのだけれど、おかげでこういう場面にも出くわすというものだ。一人の男性が喫煙室に入ってきた。携帯電話で話をしている。その話から察するに、彼は誰かと待ち合わせをしていたようである。しかし、彼は二度も降り損ねたようである。待ち合わせの駅を、初めは行き過ぎて、次は戻り過ぎてという具合にである。こういう失錯行為を目にすると、僕は「にんまり」する癖があって、きっと、この時、僕は「にんまり」していたのだろう。僕はよっぽど、「今日は日が悪いようだからその約束、断ったらどう?」と言いたくなった。でも、抑えた。余計な事だからである。
それから河原町まで出る。京都の店は開店が遅くて、11時オープンの店とかがけっこうある。カフェに入る。窓際の席に座る。通りがよく見える。向かいの店でオープン準備をしている。11時前だ。店員の女性が物凄く苦労してシャッターを上げている。痛々しいほど悪戦苦闘されていた。このシャッターというものを、もう少し軽くするなり、滑りを良くするなり、そういう工夫が雇用者やメーカーには必要だろうと僕は思った。それよりも、この女性は毎朝シャッターを開けることがストレスになっているはずである。一日の初めにこういうストレスがかかるのでは、彼女はあまりいい仕事ができていないかもしれないな。あるいは、今日もシャッターを開けるのかと思うと気分が重たくなるとかいうことを体験しているかもしれないな、などと余計なことを考える。
僕がこういう余計なことを考えて、要らぬ心配をしてしまうのは、僕がとても難しい問題に取り組んでいるからである。ずっとそれに取り組み続けることも、直視し続けることもしんどいことなので、こういう余計な事柄に目を奪われてしまうのだ。でも、まったく余計なものとも思っていないのだが。
まあ、そんな感じで、僕は11時まで時間待ちをしているのである。カフェに入っていて、この文章もそこで書いているのである。このカフェ、なかなか趣味のいい音楽が流れている。でも片方のスピーカーからは音が出ていないようである。これも余計な事か。
この後、一件買い物をして、それから図書館に行く予定だ。図書館からの帰りに、古書店を覗く予定である。ここは専門書がよく揃っている。その後、職場に顔を出して、明日の準備と、できればブログの更新等もしておきたい。その後、僕の師匠に会いに行く。それが終わると、師匠の近所の古書店を見ておく予定だ。この古書店、しばしば掘り出し物が眠っていたりする。その後、帰宅である。帰宅すると、師匠とのやりとりを記録にする。これが今日の残りの予定である。
古書店巡りをするのが僕は好きで、一日費やして方々を回りたいと、前々から思っているのだけど、なかなか実行できずである。今日も時間があれば寺町の「梁山泊」に寄りたいのだけど、余裕があるかどうか。この「梁山泊」という古書店であるが、感心したのは全集ものがきっちり揃っていることである。一巻から最終巻まできちんと揃っているのである。見ているだけで気持ちいいのである。買うわけではない。ただ、全巻揃っているのを眺めて、「おお、よう揃っとるなあ、いいなあ」と感動して帰るだけである。傍から見ると、よほどの変人に見えるかと思う。できれば変人ではなく、奇人と見て欲しい。全集ものが、欠巻なく揃っているということが、なぜそんなに快感なのかということは、僕なりに理由がある。だけど、それはいつか話すことにしよう。
おっと、向かいの店がもう半分のシャッター開けたぞ。今度は二人がかりで開けた。うーむ、シャッターを開けるのも一苦労なのだろうなあ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)