12月2日:「ウォーキングコースの夢」 

12月2日(水):「ウォーキングコースの夢」 

 

<夢>「ウォーキングコースの夢」 

 僕は仕事か何かで学校のような場所にいる。学生ではなかったようだ。隣の教室では学生さんたちが授業を受けているのを見たからだ。 

 廊下の天井を開け、そこからいろんなものを運んでいる。一人が脚立に乗って、ゴソゴソと取り出し、僕はそれを下で受け取り、次の人に渡すという役割だった。 

 一仕事終えて、休憩所のような場所に入る。僕たちは雑談している。一緒に仕事をした人たちだろうか。男性もいれば女性もいる。ピアノが置いてあって、僕は少しだけ弾いてみる。 

 その後、解散になったのか、僕は一人の女性と一緒に歩いている。遠くの山を指さして、まるでキウイみたいだねと言い合ったのを覚えている。山の緑と砂地の対比がキウイの果実と皮の感じに見えたから。 

 宿舎のような場所に帰る。僕はもっと歩いて体を動かさないといけないと思った。それでウォーキングのコースを考えてみようと思い立つ。 

 そこを出て、前の道路を左方向へ歩く。住宅街で、道端で子供たちが遊んでいるのが見えた。適当なところで左折する。先ほどの山が見える。しばらく進んで左折する。同じような住宅街の風景があった。さらに左折する。今度は少し傾斜になっていて、登り坂だった。さらに左折して、出発点に戻る。左回りにぐるりと一周したわけだ。適度な距離で、静かだし、ここを何周かするといいかなと思う。 

 

(連想と感想) 

 この夢は前半と後半に分けて見ていく方がよさそうだ。 

 前半は学校の中のことだ。僕は学生ではなく、仕事でそこに行っていることになっている。何かを運ぶのだけど、それは天井から取り出される。屋根裏の物置のようなものだ。僕の実家にもそれがある。先日、探し物があってそこに入った。探している物は見当たらなかったけれど、いろんなものが使われることなく仕舞われているのを見て、何だか勿体ないなと思った。 

 使用されていないものをもっと取り出さないといけないということだろうか。それを学校でやっているということは、何か学校と関係のあることかもしれない。 

 最近、検定試験の勉強を始めた。それは今年の3月に受けた検定試験のさらに上のクラスのものだ。こういう勉強は学生時代を思い出すのは確かだ。高校生の頃のように勉強できればいいなあと思うことが度々ある。あの頃が一番よく勉強に身が入っていたように思うし、それだけの根気もあった。 

 それから考えると、今は勉強はそれほどできない。一つ覚えるのでも、十代のころに比べれば時間もかかるし、根気も続かないし、体力も落ちていることを実感する。 

 夢は具体的な事柄を示してくれていない。いろいろ雑多なものを運び出したのは覚えているけれど、具体的にそれらが何であったかははっきりしない。仕舞われたまま使用されていないもの、かつては使用されていたけれど不要なものとして仕舞われてしまったもの、それらを取り出すことが肝心なのだけれど、夢が見せてくれたのはそこまでで、それが何であるかは示してくれない。僕がそこに注意が行き届いていないからだろうし、関心を向けていないからかもしれない。 

 だから、その後の休憩室の場面で、ピアノを見つけて演奏するというのは、僕が現実にピアノや音楽に関心を向けているように、それと同じような関心でもって、その何かに関わらないといけないということなのかもしれない。 

 

 後半は学校を出てからの部分だ。 

 少しだけ僕は一人の女性と一緒に並んで歩いていた。遠くに見える山を指さしてキウイみたいと言っている。 

 一緒に女性と歩くというのは、ごく最近経験したばかりだが、ウンザリするだけだと思うようになった。遠くの山を指さして話題にするというのは、その気持ちと通じるところがあるように感じている。自分たちのこと、身近なことを二人の話題にするのを僕が避けているのだ。自分たちと直接関係のないこと、ずっと遠く離れたものを取り上げ、そこに自分たちの目を向けて、お互いを見ないようにしているということだ。 

 その山がキウイのようだったのだけど、これは緑が本当に瑞々しい感じだった。緑のない部分は、岩肌ではなく、砂地のようで、キウイの表面の皮に似ていた。 

 キウイに特別な連想はないのだけれど、果物として見ると、それは「実り」ということを思わせる。果樹が育って、果実を実らせるのだから、果実は成熟なんかを連想させるのだ。 

 女性と歩いていて、その「実り」とか「成熟」がずっと遠くの方に見えているというのは意味深いものがある。すごく遠いことであるように思われる。実際、僕はそう感じている。僕が結婚を考えないのは、自分が結婚に適するほど性的にも精神的にも成熟しているとは自分でも思えないからなのだ。もちろん、ここには僕の抱える一つの問題がある。その問題に対して、僕はすぐにそれを見ることを回避する。 

 回避しているというのは、夢でも現れていて、この女性と一緒に歩いた距離はほんのわずかだ。すぐに僕は独りになっている。その女性とどのようにして別れたのか覚えていないけれど、気が付けば独りになっていた。 

 その後、僕は宿舎に入る。これははっきりしていないのだけれど、アパートのようでもあったし、自宅のようでもあった。でも、僕がそこに住んでいるということだけは明確に意識していた。住居である。人間にとって一つの拠点である。 

 さて、それからウォーキングコースを決めるということで独り歩きをするのだけど、ここは少し嬉しい箇所だ。僕がよく見る夢のパターンでいけば、この独り歩きは放浪に変るはずである。独りでそのままどこかに行ってしまうのだ。でも、夢では一周して元の位置に戻ってくる。僕はこの拠点から離れることなく歩いたのだ。この拠点とつながりが持てているという感じがする。 

 コースの方は、左回りで一周しているが、これは中学や高校での陸上部時代の名残みたいなものだ。一周するという時、左回りが自然であるように感じられるのだ。夢でもごく自然に左回りしている。 

 住宅街の風景は、僕の生まれ育った実家の地域に感じが似ていた。道端で子供たちが遊んでいたけれど、それは子供時代の僕だったかもしれない。僕は自分の拠点からそれほど外れることなく、過去の風景を見て、過去を通過している。それは僕を一段高めてくれるかもしれない。というのは、そのコースの最後に上り坂があるからだ。上り坂を上がる前と上りきった後とでは、僕の立ち位置に違いがあるわけだ。上る前よりも高い位置にいることになるからである。 

 

 少しまとめておこう。 

 夢の前半と後半でテーマが違ったり、情景が違っていたりする時には、それはそれぞれ別種の事柄を示しているものと考える。ユングは、それは問題の種類が異なるのだという説明をどこかでしていたように僕は記憶しているけれど、「問題」と限定するのはどうだろう、それが正しい場合もあれば、そうでない場合もあるような気がしている。いずれにしても、二つの事柄が示されていると考えるのは妥当であるようには思う。 

 前半は、仕舞われているものを取り出すこと、そして取り出されたものに対して関心を向け、関わることというテーマが含まれているように思う。 

 後半は、女性との関係ということが含まれているが、拠点から離れず、過去に触れること、一段上がるためにはそういう態度を維持すること、そういったテーマが含まれているように思った。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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