12月18日(金):ようやく返却
クライアントに貸していた本が今日戻ってきた。彼は返す返すと言ってなかなか返してくれなかった。貸したのは一年以上前のことだ。今日、返してもらえないなら少しキツク言おうと決めていた。そのために昨夜はあまり眠れなかった。それをどう言おうか、どう切り出そうかなどと、延々とシミュレートしていたためである。
こういう時。クライアントの自発性に任せようというのが一般的な考え方であるかもしれない。そのように考えるカウンセラーもあるだろう。僕は反対だ。
本のことを言っているのではない。本は戻ってこなくてもまた買えばいいのだから、それは問題ではない。ただ、その人が借りたもの返す人間になるかどうかなのだ。返せないなら返せない理由をきちんと説明できるかどうかなのだ。
僕の個人的な見解にすぎないけど、そこでまともな人間かダメな人間かが分かれると思っている。彼をダメな人間にしたくないなら、借りたものは返す人間にしていかなければならない。
小さな子供ならまだしもだ。それが修正されないまま大人になるとたいへんなことになる。借りたものを返さないということをやっている人はまずまともに生きていないと僕は確信している。
子供はまだしもと言うのは、子供はまだ自他未分化な部分が多分にあるからだ。何が自分のもので何がそうではないのかがはっきりと身についていない。自分のエリアにあるものは自分のものだと感じてしまうかもしれない。また、嫉妬のような感情も働くかもしれない。僕の考えでは、嫉妬は極めて幼児的な感情である。嫉妬の話に流れそうになるので割愛するけれど、嫉妬感情は新しい実存を手に入れることで解消されるものである。メルロ・ポンティの説に僕は賛成だ。
子供時代にそういうことをしたとしても、どこかでそれは修正されないといけない。年齢的に成人してからでも修正された方が良い。借りたものは返す。延期する場合ならいつ返すかを明確にする。返せない事情があるならそのことを説明する義務が生まれる。社会適応している人からすれば当たり前の話である。
社会適応ということを一義的に考えすぎても良くないことではあるけれど、今の社会に生きている以上今の社会に適応することは必要なことになってくる。ただ、適応とは必ずしも服従といった意味ではない。それは規範を守るといった意味であり、それで十分なことであると僕は考えている。借りたものを返すというのは一般的な規範の範疇に入るものだと僕は思うのだけれど、いかがなものだろうか。
一部のカウンセラーたちは、僕の偏見だけれど、社会不適合者を作り出してしまっていると思う。受容と共感の弊害だとさえ僕は思っている。AC(アダルトチルドレン)の理論家たちは、ある意味では子供に共感しているのである。過剰なほど共感しすぎているように僕には見えている。結果、子供のスプリッティングを強化してしまっているようにも僕には思えてくるのだ。ところが、それでは子供たちは生きていけないのだ。
僕はクライアントから厳しいカウンセラーと見られても構わない。クライアントが生きていけるようにならなければならないのだし、そのためには嫌われようと攻撃されようと構わない。
(寺戸順司―高槻買う根リングセンター代表・カウンセラー)