11月14日:好奇心

11月14日(日):好奇心

 

 今、昼休憩中だ。ブログがいつも後回しにされるので、今日は先に書いておこう。

 午前中は予定がなく、パソコン作業をして、その他論文を二つほど読んだ。かつて読んだ論文なので理解も速やかだ。

 軽く昼食を済ませたところだ。うどんを作って食す。100円で4食入っているので、今日の昼飯代は25円といったところだ。食事なんてその程度でいい。

 

 さて、あることをやってみたいという気持ちを「好奇心」と呼ぶとして、どういう好奇心が有益であり、どういうものが害となるか、そんなことを今日はずっと考えていた。あるクライアントさんのことを考えている中でこの疑問にぶつかったのだ。

 

 基本的に、やりたいと思うことをやったらええ、というのが僕の考え方である。法に触れるとか、自他に危害が加わるようなことは禁止だけれど、そういうもの以外であればやればいいと思うのである。教育でもこういうことが言われている時代だ。子供の好奇心を大事にするとか、子供の「やりたい」を大事にするとか、それはそれでけっこうである。

 人によって異なるのだろうけれど、興味や関心というものは、一回拡散してから焦点づけられることもけっこうあるものだと僕は思っている。あれこれに興味を持ち、あれこれに手を染めるのだけれど、最終的に一つが残るということがけっこうあるのではないかと思う。僕の経験でもそうであったし、幾人のクライアントさんからもそれを確認することができた。

 つまり、最初から興味のあることを一つに絞るなんてことはできなくて、あれこれやっていくうちに最終的に残る一つがあり、その一つが終生価値をもつものになるということである。自分が何をしたいか分からないというのは、やる前から一つに絞ろうとし過ぎているのかもしれないわけだ。

 

 好奇心がそうした試行錯誤に結びつくのはいいことだと思う。興味を持って始めたけれど、どうも自分にはしっくりこないなということであれば、そのことが分かっただけでも価値があるのであり、また他の興味あることに移ればいいのである。

 そういう試行錯誤の性質を帯びない場合、それは興味や関心に振り回されるだけであり、そこからもっとも大切な一つを選ぼうという気持ちが乏しいのではないかと思えてくる。

 

 そのことから、好奇心は向上心とか向学心と結びついている方がいいということが言えそうである。興味をもってやってみて、ただ「やった」というだけで終わるのは、好奇心は満たしても、そこに向上心とか向学心とかが欠けているのだ。その場合、興味をもっていろいろやったとしても、その一つ一つが「やった」という記録に終わっているようなものであり、身についたものが一つもないのではないかという気がしてくる。

 

 向上心や向学心と結びつかない好奇心とは、ただのヒマつぶしの活動に近いものだと思う。場合によっては今現在の自分から逃避したい心性の表れでしかないかもしれない。好奇心は、それ単独ではあまり意味がないかもしれず、他の何かと結合している方がいいのではないかと思う。ここでは向上心とか向学心を言っているけれど、それ以外にも、将来の何かとか、他の人のためになる何かとか、有益な何かと結びついているとより良いだろうという気がする。

 つまり、好奇心並びに好奇心に基づく活動は、ヒマつぶしや気晴らしに結びついてはいけないということである。それらに結びつくということは、興味があってやりたいからやるというのではなく、他にすることがないからそれをやるという感覚にずっと近くなるだろうと思う。もはやそれは好奇心とは言えなくなるかもしれない。その活動はもっと強迫的な色彩を帯びるかもしれない。

 また、それらは空虚を埋め合わせるための活動になるので、発展していくことが期待できないように思う。今この退屈を紛らせることができればそれでいいわけなので、向上心も向学心も不要なのだ。

 

 発展していくということも大事な観点だ。またそれが自閉的活動であっても困るので、その活動の到達点がどこかに設定されているといいだろうとも思う。そんなことをあれこれ考えていて、考えはまとまらないけれど、まあ、引き続きあれこれいろいろ考えてみるか。

 

 そろそろ午後の準備をしようと思う。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

関連記事

PAGE TOP