10月9日:「桃太郎」講話

10月9日(木):「桃太郎」講話(上)

 夕べはやたらと「きびだんご」のことを考えていた。これは「桃太郎」さんのきびだんごのことだ。
 日本で育った人なら、一度くらい昔話の「桃太郎」を耳にしたことはあるだろうと思う。でも、知らない人もいるかもしれないので、かいつまんで筋を述べよう。

「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」
 出だしはこんな調子である。時代も場所も特定されず、また、おじいさんとおばあさんの人格的特徴を有さない表現である。これは神話なんかと同じ描写の仕方だ。そして、この二人は、いわば象徴としての存在であり、おじいさん―おばあさん像とか年老いた夫婦の原型的イメージのようなものだと考えるといい。

「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました」
 これはこの夫婦の日常生活の描写である。完全分業制という感じがしないではないが、双方には役割があり、お互いが自分の役割に徹していることを表しているようだ。夫婦の生活とはそのようなものだということでもあるように思う。

「おばあさんが川で洗濯していると、川上から大きな桃がどんぶらこと流れてきました」
 ここからおじいさんの出番がなくなって、おばあさん一人の登場シーンである。おじいさん(男性)が姿を消して、おばあさん(女性)だけが描かれているのは、これからおばあさん(女性)にとって重要なテーマがもたらされるということを予期させる。

 さて、物語をできるだけはしょろうと思うのだが、次の場面は、アレンジ版とオリジナル版がある。僕たちが親しんでいるのはアレンジ版の方だ。
「その大きな桃を家に持ち帰って、おばあさんが桃を割ると、中から男の子が飛び出してくる。桃から生まれた桃太郎と名付けられる」
 僕は子供の頃、この場面の挿絵を見て、モモは真っ二つに割れているけれど、どうして桃太郎は真っ二つになっていないのだろうと疑問に思った経験がある。それが可能なためには、桃太郎はおばあさんの包丁が入る瞬間、モモの片側に身を寄せていなければならない。でも、そうだとしたら、桃太郎の体の大きさとモモの大きさが釣り合わない、などと考えていた。当時からひねくれたことを考えるイヤなガキだったなと我ながら思う。

 オリジナル版の筋はこうである。
「その大きな桃を持ち帰って、おじいさんとおばあさんがそれを食する。すると、二人はみるみる若返って、それで子づくりに励み、そうして桃太郎が生まれた」
 僕はこのオリジナル版の方が好きである。肝心な点は、桃太郎がおじいさんとおばあさんの実の子であるという部分だ。
 子供を産んで育てるという仕事をこの二人はしてこなかったことが分かる。夫婦の人生上のやり残した仕事を桃が与えてくれたことになる。そして、これこそ女性にとっては特に大きなテーマである。おじいさんが筋から姿を消したという伏線がここで活かされる。

 書くのが面倒になってきた。取りあえず最後まで続けよう。以下、すごく簡略化する。
 「桃太郎は立派な青年になり、鬼が島へ鬼退治に行くことを決意する」
 これは人生上の課題とか目標のようなものを指している。鬼が島というのは、それがとても遠い場所、はるかに離れた地点にあるということを示唆しており、鬼退治はそれが危険や困難を孕んでいるということを示唆しているように思う。

「鬼退治に向かう桃太郎に、おじいさん、おばあさんはきびだんごを持たせる」
 ああ、この「きびだんご」の意味深さ、感動してしまう。
 子供が自分の人生上の目標のために親ができることはここまでなのだ。きびだんごを与えるということだけなのだ。

「鬼退治に向かう道中、桃太郎はサル、イヌ、キジと出会い、きびだんごを分け与えて仲間にする」
 悪く言えば買収したということになりそうだが、桃太郎は親からいただいた貴重なきびだんごを仲間を作ることに使用する。
 「きびだんご」は、親が子に与えてくれた一つの資源のようなものだ。この資源を、子供は自分の人生のために活用しなくてはならない。親が直接与えてくれるのではないのだ。親が与えてくれたものを活用し、子供自身が得ていくのだ。
 だから、このきびだんごを、桃太郎はお守りのように大事にしてもいいし、ここ一番で力を振るう時に食べてもいいし、ここに親がいてほしいと感じた時にきびだんごを使用してもいいわけだ。
 この「きびだんご」は、従って、知恵とか知識、経験など、あらゆる物事が集約されている象徴なのだ。
 しかし、この仲間たち、不思議な顔ぶれだ。イヌとサルなんて仲の悪い代名詞ではないか。それが桃太郎を中心にして仲間になっている。桃太郎のきびだんごでつながった仲なのだ。それはお互いの間で何かが共有されているという関係であり、いわば「兄弟の契りを結んだ」というような関係であり、「同じ釜のメシを食った仲」のような関係である。この共有されているものの故に、イヌとサルは犬猿の仲にならないわけだ。
 そして、ここから今度はおじいさんとおばあさんの双方が姿を消し、桃太郎(子供)が描かれている。先述のおじいさんが姿を消す場面同様、これから桃太郎(子供)にとって重要なテーマが描かれていることを予期させる。

 分量が多くなるので、続きは次回に引き継ごう。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 母親が子供にしてあげることは何であるか。これを考えている時に「桃太郎」に思い至ったのだ。その時は、我ながら着眼点がいいぞなどと思ったものだ。でも、実際に文章化してみると、実にチープな内容になってしまった。
(平成29年2月)

 

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