10月8日(月):唯我独断的読書評~『西部劇』(増淵健)
映画評論家マスケンこと増淵健さんの西部劇論だ。キネマ旬報での書評において、本書はあまり評価されておらず、独断的だと評されていた。確かにその批評は頷ける。本書を読むと、随所にマスケンさんの独断と見られる文章に出会う。
しかし、それで本書の面白さが損なわれるわけでもない。むしろ、独断と見られる部分は、著者の固有の観方を表しているかもしれない。一般とはかけ離れた視点を指して独断と表されているだけなのかもしれない。そのように考えると、独断はまた新たな視点をもたらしてくれる可能性を秘めているようにも僕は思う。
本書は主に1960年代までの西部劇を扱っている。西部劇にまったく興味のない人にはチンプンカンプンな内容かもしれないけど、その一方でアメリカ映画やアメリカ人を理解する一助にもなり得る。
最初に名作「駅馬車」を取り上げる。ここでは西部劇はマンネリを楽しむものという説が説かれる。これは西部劇を見る観客の幼児性と関係するのであるが、ヒーローと同一視できるという経験であり、それには一定のパターンがある方がやりやすいということである。これを読むと「アラモ」がコケた理由が理解できる。加えて、西部劇は7年周期でブームが来るとか、主人公はなぜか左肩を負傷するとか、アメリカ人の好みはグッド・バッド・ガールであることとか、この映画のシーンが数々の映画に転用されたこととか、その他の雑学も得られる。
続いては「荒野の決闘」である。史実であるOK牧場の決闘をモチーフにした作品であるが、映画は史実ばなれしていることを指摘する。しかし、史実ばなれこそ、西部劇を国民劇にしているのであり、アメリカの発展プロセスの必然であったと説く。フロンティアという概念の曖昧さが、史実と異説の差に頓着しない観客を作り上げていると言う。面白く、興味深い理論であるように僕には感じられた。
続いてジョン・ウエインがダメおやじを演じた「赤い河」が取り上げられる。ここで家族が取り上げられる。ヨーロッパから移民したアメリカ人たちは、その開拓精神の故に、親子で断絶が生まれるのだ。親世代は時代遅れになってしまうのだ。そうして父親失格の父親と、やたらと子供に影響を与えてしまう母親が生まれることになる。「男に指図する女」のことがこの章で言及される。
男に指図する女の関連で、「死の谷」を取り上げる。アメリカ映画に出てくる女性像(当然西部劇にも繰り返し登場する女性像)にグッド・バッド・ガールがある。これは見た目は悪女なんだけど、根は善人という女性である。こういう女性像がアメリカ人好みなのだろう。男に指図する女も、このグッド・バッド・ガールの系譜に属する。「男に指図する女」とは、男が成功できるように指図し、下準備を整え、しかも何の報酬も求めないという女であり、アメリカ人の理想とする女性ということになるのだろう。
「死の谷」から20年後の「明日に向かって撃て!」では、「男に指図する女」もその像がかなり様変わりしていると言う。20年の歳月が、映画だけでなく、アメリカ人の理想も変えたのだろう。
アメリカ的家族のありかたは「黄色いリボン」にも描かれている。著者は騎兵隊のグループを家族と同等視して、これをホームドラマとして見ている。僕にはなかった視点だ。そして、この映画のラストシーンの美学がアメリカで評価されないのは、アメリカ人が極度に孤独を嫌うからであると考察している。
またアメリカ人には極度な権力アレルギーがある。権力を必要とするが、それが大きくなりすぎることに不満を覚える国民であるようだ。この権力アレルギーは西部劇にも顔を出し、特に保安官の扱いにそれが出ると言う。西部劇の保安官はさまざまな性格を付与される。保安官に対する周囲の反応は権力アレルギーの表現である。それは「真昼の決闘」に顕著に表されている。
西部劇にはアメリカ人の性格や性質が現れるが、アメリカ賛歌を歌っているのは「シェーン」である。ただし狡猾な賛歌であると著者は説く。しかし、この映画は同時に乱倫をも扱っている。一家の母親であり妻でもある女性が、流れ者のシェーンに恋情を抱くわけだが、そこに乱倫を見ているわけである。確かにそれ以前の西部劇にはなかった要素であるかもしれない。ちなみに、日本のようなタテ社会では乱倫は描けないという独断が挿入されるが、それも一理あるかなとは思った。そして、西部劇映画における性の取り上げ方が本作から変わったと言う。
「ヴェラクルス」は野球のような交代の面白さがある。この交代劇にエイゼンシュタインのモンタージュ理論が活かされている。僕はこの映画を観たことがない(と思う)ので、どうも読んでいてもピンと来るところが少なかった。しかし、二大スターの対決はつまらないという著者の見解にはいくらか賛同できる。制作側が両方のスターの顔を立てようとし過ぎるからだろう。
映画作品には、日本では名作なのに、アメリカでは今一つと評価されるものもある。「大いなる西部」はそのような一作だ。著者はこの映画が過大評価されている理由が分からないという。実は僕も同意見で、「大いなる西部」はいい映画だけど、西部劇とは僕は見做していない。著者の見解では、一番のネックは主役のグレゴリー・ペックの煮え切らない役にあるとしているが、一理あると思う。
それとは逆にアメリカでは名作なのに、日本では評価の低い作品もある。その一例が「昼下がりの決闘」である。この映画が封切られた年は「西部開拓史」はじめ、いくつもの大作映画が作られ、その中に埋もれてしまったために評価が低くなったと著者は見ている。この映画、若きサム・ペキンパー監督が二人の老年ガンマンを描いているところに妙味がある。老年に老年は描けないという著者の主張が展開される。
西部劇は一本ヒットすると、それを真似たような作品が生まれる。一作の映画はルーツを辿ることができるわけだ。しかし、「明日に向かって撃て」はそういうルーツが見いだせない作品であると著者は説く。僕は昔この映画を観たことがある。ポール・ニューマンが自転車で曲乗りをするシーンがあったのを覚えている。著者はこの自転車こそ本作の重要な象徴であると見る。そういうところを見ているのかと感心する部分だ。尚、これまでの西部劇ヒーローがリースマンの言う内部指向型人間であったのに対して、この映画の主人公たちは他人指向型人間である。ヒーロー像がそれだけ変わったのだろう。社会が以前のような主人公を受け入れがたくなっていたのかもしれない。
最後にあとがきとして、著者による「西部劇30年史」が付されている。本書で洩れた作品に触れると同時に、私小説のように映画を書くという著者の姿勢が示されていて、なかなか興味深い。著者の人柄が感じられる部分であり、ここだけでも読む価値がある。
以上、マスケンさんの西部劇論だ。独断的な表現も多々あり、また、引用書も偏っている(『アメリカ人の心理』『映画の心理学』『孤独な群衆』など、特定の本からの引用が多い)ところも感じられるけど、マスケンさんの映画評は魅力的だ。
何よりも、映画をすごく丹念に観る人なんだなと思う。とことんまで観る、細部までこだわって観るといった人であるという印象を受ける。「駅馬車」で拳銃の種類が変わっている場面とか、よくそんなところまで観ているなと感心する。
「駅馬車」と言えば、この映画の諸場面が他の映画に転用されている。マスケンさんはどうやってこれを発見するのだろうと疑問に思う。現在のようにビデオやDVDがあるわけではないのに。思うに、映画の一つ一つの場面をしっかり脳裏に焼き付けるのだろう。だから他の映画でその焼き付けられたシーンが出てくると、それがすぐに分かるのだろう。当然、ロードショーから再上映、テレビ放映と、一本の映画を繰り返し見てのことだろうけど、すごい情熱だ。
昔の映画評論家は、淀川長治さんをはじめ、荻昌弘さんや、水野晴朗さんなんかもそうだけど、映画にものすごい情熱を傾けていた人たちが多かったように思う。マスケンさんもまた、その時代の人の一人なんだなと再認識した。
さて、本書は西部劇に関するものであるが、同時にアメリカ人の性格とか気質に関しても学ぶところ多い。「男に指図する女」をはじめ、プロフェッショナルへの憧憬(これは「荒野の七人」に代表されるように、各人が何らかのエキズパートであるという設定である。今でもアメリカ映画にはこの構図が見られる。ヒーローとその道の専門家たちが仲間になるなど)、権力アレルギー、その個人主義とフロティア精神などなどである。
本書の唯我独断的読書評は、4つ星半を進呈しよう。思いっきり僕の独断と偏見である。でも、本書を読むと、ここに取り上げられている映画を片っ端から観たくなってくる。
<テキスト>
『西部劇』(増淵健) 三一書房
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)