10月4日(金):書架より~『人格心理学』(1)
今月は人格・パーソナリティ心理学を中心に勉強しよう。手始めに選んだのは本書である。放送大学の1996年度のテキストで、実際に僕が教科書として学んだ本だ。また読み直す。
全体は15章から成るので、5章ずつ読んで3日で読み終えよう。
1「人格」とは
私たちは自分や他者の人格に関心を持っている。人格心理学における特性論と類型論。類型論の一例としてのクレッチマーによる3類型。人格の判断について、人はそれぞれ「暗黙のパーソナリティ論」を持っている。人格心理学の起源はギリシャ時代にまでさかのぼれる。人格心理学における人格の定義は、その心理学者の依って立つ立場により異なってくる。
全体の導入の章であるが、なんとも簡潔にまとめてある。改めて読むと、クレッチマーの類型はさすがだなと感心する。また、「暗黙のパーソナリティ論」に関してもすごく納得がいく。
2「人格」理解の方法
人格理解には人格研究と個性記述的アプローチとがある。方法としては調査法と観察法、面接法(調査的面接と臨床的面接)、心理検査法(質問紙法と投影法、作業検査法)、その他記録や作品による方法などがあり、以下、各々の詳細が綴られている。
本章は主に心理テスト、アセスメントに関する内容である。また、人格理解の方法論でもある。
3人格理論(1)精神分析的アプローチ
本章は主にフロイトによる精神分析的アプローチを取り上げている。いわゆる局在論と経済論が主眼となる。加えて、神経症論、治療論にも言及されている。
短い章でありながら内容は豊富であり、よくここまで簡潔にまとめることができたなと感心するばかりだ。
4人格理論(2)現象学的アプローチ
本章では、精神分析と行動主義の2大勢力に対抗して現れた第3勢力である現象学的アプローチについて、主にロジャースの理論を中心に述べてある。ロジャースの自己理論ならびに自己の発達論。さらに加えて、自己理論とクライアント中心療法との関係まで話が広がる。
他の章と同じく、よくまとめられている章だ。ただ、4章と5章とは順番が逆である。ロジャースらの現象学派あるいは人間性主義に先立って、精神分析と行動主義が生まれていたからである。
5人格理論(3)行動主義的アプローチ
ここでは行動主義的アプローチを取り上げている。行動主義、その原点と言えるパブロフの条件付け理論から始まり、ソーンダイク、スキナーらのオペラント条件付け、さらにはバンデュラのモデリング理論へと、主に性格形成の視点での記述がなされる。最後に、実験神経症から行動療法まで範疇におさめている。
ダラードとミラーの葛藤理論は有名だ。接近―接近葛藤、回避―回避葛藤、接近―回避葛藤、それに二重接近―回避葛藤の4つを規定している。接近―接近葛藤では選択が容易であるのだが、それでも葛藤が解消されない例では二重接近―回避葛藤に陥っている可能性があるとのこと。うーむ、勉強になるなあ。
以上、1章から5章までを読んだ。
放送大学のテキストは定評がある。テキストがすごくいいという評判だ。僕もその通りだと思う。その道の一人者が執筆しているだけに、要領よくまとめられているのが魅力だ。本当に分かっている人が書く本はかくも的確なのだなと改めて思う次第である。それに比べて、やたらと冗長になる僕の記述など、とても足元にも及ばんわ。
まあ、大学の授業のテキストなので、読み物としての面白さには欠けるかもしれない。でも、まったく無駄のない記述、全体を包括する内容は見事である。もし、短時間でそのテーマについて勉強しなければならないとすれば、放送大学のテキスト(そのテーマのテキストがあればの話だけど)を紐解くのが一番いいかと思う。無駄なく、要領よく学ぶことができそうである。その代わり、一文一文を疎かにしないようにしなければならない。ななめ読みや飛ばし読みは禁物である。
さて、人格心理学を復習しようと思い立った経緯を綴っておこう。
僕は時折耳にするのだけれど、「障害はその子の個性とみなそう」といった提言がなされる。もちろん、これは障害児の差別や偏見を撲滅することを目指して言われるスローガンであり、僕はそれに反対しているわけではない。
ただ、障害が個性になるかと問われると、僕としてはノーと言いたくなる。そもそも、個性とは人格にあるはずであると僕は思う。だから人格について改めて勉強しようと思い立ったわけだ。
もう一つ言えば、病気や障害がその人の個性であってはならないと僕は信じている。その病気によって芽生えた傾性とか、その障害によって延びた能力などがその人の個性につながっていくものだと僕は考える。個性にとって、病気や障害は副次的な意味しか有していないと思うわけだ。
例えば、足の不自由な人がいるとしよう。この人は動き回れることができない分、手先を使っての活動が増えるかもしれない。そうしてすごく手先の器用な人になったとしよう。足が不自由なのはこの人の個性ではなく、手先の器用さをこの人の個性として認めたいと僕は思うわけである。
目の見えない人は聴覚が優れているかもしれないし、耳の聞こえない人は視力が優れているかもしれない。この優れた聴覚や視力が個性になるわけだ。障害そのものは個性にはならない。
躁鬱気質の人は共感性を伸ばしているかもしれないし、分裂気質の人は冷静さを伸ばしているかもしれない。粘着的で爆発的な人は、爆発することがその人の個性なのではなく、その無尽のエネルギーが個性として認められるかもしれない。病気、症状、問題を抱えていても、それらはその人の個性になるわけではないし、それらがその人の個性であってはいけないと僕は思うのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)