10月29日:経験を綴ること 

10月29日(日):経験を綴ること 

 

 現在18時。朝からバタバタして、いい加減、クタクタになっている。昼食もまだだ。 

 半端じゃない疲労感に襲われている。かなりキツイと感じている。 

 予定の作業はこなしたが、夕方の一件がキャンセルとなった。まあ、いい。時間が空いたとなれば、昼めしよりも、原稿書きだ。空腹も激しいが、食事なんか後回しにしても死ぬわけじゃあるまい、もうひと頑張りする方がましだ。 

 

 予定の仕事以外としては、ランディングページ(LP)を手掛ける。 

 LPに関しては、僕は考え方を一新した。業者さんの作ったページに基づいて僕は作ろうとし過ぎていた。彼らの作った枠組みに自分を無理に押し込めようとし過ぎていた。僕はそれを改める。このLPも僕が作る。彼らのこしらえたものなんか、すべて消し去ってやろうとさえ思っている。 

 それでLP用の原稿を書いた。これは複数のページが同内容のものであっても構わない。キーワードによってはそうなってしまうのだ。でも、一つ作って、それをコピーしまくるようなやり方はしないつもりだ。内容が同じでも、一つ一つを書く。そして適度に表現や中身を変える。 

 今日は3ページ分書いた。3ページということは、A4用紙で12枚程度だ。 

 加えて、サイト用の原稿の読み直しを行い、いくつか修正なり校正なりをしていく。 

 それにこのブログも書いている。 

 はっきり言えば、面接以外の時間はずっとパソコンと向き合っているという感じだ。ずっと書いている、もしくは、読んでいる。 

 今日はこの後もまだまだやるつもりだ。 

 

 具合はよろしくない。最初に膝の感じでそれが分かる。今日は膝が曲げにくい。加えて、腹具合もよろしくない。それもあって昼抜きでも大丈夫なのだけど。 

 どれだけ具合が悪くとも、そのためにどれだけ仕事に支障を来そうとも、止まるわけにはいかないのだ。僕の人生が始まっている以上、止まることは許されないのだ。 

 僕のことを進歩主義だと感じる人もあるようだ。でも、進歩主義であろうと、終末思想の信奉者であろうと、僕たちが一か所に留まる存在ではないという点では一致しているのではないだろうか。向かう先が明るい未来かハルマゲドンかの違いでしかない。いずれであれ、僕たちは止まることができないのだ。 

 毎日、とにかく何かが少しでも前進することが大切だ。そういう思いで日々を送っている。一か所に留まった時点で、その人には上昇も下降もなくなってしまう。そういう不動の在り方を目指すならそれもよろしいかとは思うのだけど、僕は御免だ。 

 

 レーヴィットは書いている。「天才は道を切り開くが、自らはその道を歩まない」と。つまり、天才は何かの領域で道を開拓するのだけど、その道を辿るのは後世の人たちであるということなのだ。うろ覚えなので文章が正しいかどうかに確信は持てないけど、そういうことを言っている。僕も納得できる。 

 ただ、レーヴィットと異なり、僕はそれを「天才」に限定しない。先人たちにはすべてそういう要素があるのだ。凡人であれ、彼の生きた軌跡を後世の人たちが辿り、後世の人たちがさらに開拓を進め、さらに次の世代の人たちがその道を辿るのだ。こうして人間は進歩してきたのだと思う。 

 僕は僕の書いたものにそれだけの価値があるとは思っていないのだけど、こうして書いて残しておくことが、後の世代、若い人たちの何かに役立つかもしれないという思いもある。 

 後世の人たちが、僕がぶつかっているのと同じような壁にぶつかった時、僕がその経験を綴っていれば、彼らは僕よりも先に進んでいくことができるだろう。一部のクライアントはこれを読む。読んで何かの糧を得るという人もある。彼らは僕よりも前を進むようになるだろう。それでいいのだ。 

人間の経験というのは、それ自体、人類の財産なのではないかと、最近は思うようになっている。天才の経験であれ、凡人の経験であれ、狂人の経験であれ、そうなのだ。 

 僕は僕の経験していることを書いて残しておく。それが誰かの役に立つかもしれない。でも、誰の役に立ったかということは、最後まで僕には分からず終いなのだ。そういうものだと思う。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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