10月29日(土):私を「良く」する
最近は調子がいい。仕事をすると疲れはするけれども、それでも次のことができて、尚且つ、それが負担にならないのだ。今日(28日)は、朝少し遅刻してしまったのだけど、8時半に入室した。それから晩の8時まで、面接したり、記録を書いたり、勉強したり、原稿を書いたり、資料を整理したりといったことをしている。建物の契約が20時までなので、そこで一旦職場から出なくてはならない。でも、そこから真っ直ぐ帰宅するのではなく、喫茶店に寄って、終電近くまで物を書いて過ごす。ここで三時間ほど書くのである。最近、毎日このような生活を続けている。この文章もまた喫茶店で書いている。それでも尚、時間が足りないと嘆いているのである。やること、やらなければならないこと、私にできること、がまだまだあるのである。
それと、最近は夢をよく見る。夢に関わると、私は自分に活力が戻ってくるのを感じる。夢をまったく見ないという人もあるが、そういう人は可哀そうである。力の源泉がそこにあるのに、まったく関与できないでいるからである。
最近、私はこのように考えるようになった。よく政治が良くないから生活が悪くなるのだという人を見かける。それは確かに正しい一面を含んでいると僕は思う。確かに今の政治は良くないし、政治家も何もできなかったりする。これはその政治家が無能なのだということだけではなく、何かをしようにも障害ばかりで手も足も出せないという状況があるかもしれない。公平に判断しようと思うなら、そのような観点、可能性も考慮に入れて論じなければならないと僕は思う。
それはさておき、確かに政治と私たちの生活とは密接に関係しているとは思う。しかし、自分の生活を良いものにしていくかどうかは、その生活の主体である私たち一人一人に委ねられているのではないだろうかということである。僕はそのように考えるようになってきている。だから、国を良くするのは政治家ではないかもしれないということである。国を良くするということは、その国を構成している私たち一人一人が良くなっていくということではないだろうか。
私の個人的な印象では、まともな政治家は、私の知っているわずかばかりの範囲では、一人もいない。政治家をテレビや写真で見かけた時、僕は彼の目を見るようにしている。目で人を判断するわけではないが、その人が政治家に向いている目をしているかどうかをまず確認するのである。同時に彼らの顔も見る。どんな顔をしているかをよく見るようにしている。ここ数年、首相が次々と交代してきたけれど、その歴代の首相の中には、指導者よりも、指導者を必要としている側の顔をしている人もいた。僕にはそう見える。誤解のないように言っておかなければならないが、その人たちは指導者としてよりも、指導者を補佐する役割で能力を発揮するタイプの人たちである。不適切な役職に就いてしまったようなものであり、その人たちに対して非難するつもりは僕にはないということをお断りしておく。
時に、ダメな親から非常に優秀な子どもが生まれたりする。政治家がダメなら、私たちは優秀な子どもになればいいのである。無能な政治家の下で、その国民もまた無能だということになったら、恥ずかしいのは私たちの方である。だから、私は私を「良く」することから始めなければならないのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
すごいことを考えていたんだなと思う。今でもその考え方に変わりはないけれど、こうして読むと僕が「右」か「左」の人のように思われるのではないかと、少し心配になるね。実際にはどちらでもないのだけれど。
(平成25年8月)