10月21日:酒の話(4)

10月21日(金)酒の話(4)

 

 父が西部劇が好きだったものだから、僕は子供時代によく一緒に見ていた。今でも西部劇は好きである。西部劇の影響で、僕は酒というものは立って飲むものだと思っていた。カウンターに体を半ば凭せかけて飲む、それが酒飲みの正しいフォームだと信じていた。

 僕が酒を飲み始めた時、いわゆる立ち飲み屋には縁がなかった。当時、京都にはあまりなかったように記憶している。カウンセリングの勉強で大阪に出るようになって、僕は初めて立ち飲み屋なるものを目撃する。背広姿の会社員が並んで飲んでいるさまを見て、「立ってまでして飲みたいのかな」などと、最初は違和感があった。しかし、西部のガンマンたちは皆立って飲んでいるではないかと思い、ある日、思い切って入ってみた。

 僕の立ち飲みデビューは悲惨なものだった。そこには西部のガンマンの姿などなかったのである。品のない酔っ払いが管を巻いているだけの世界だった。こうして、僕の子供時代の憧れは物の見事に粉砕されることになった。

 僕は、同じ酒飲みとして、立ち飲み屋の呑兵衛を軽蔑するようになった。それで僕は独りでもカッコ良く酒を飲もうと決めたのである。

 しかし、ある時、ちょっとした時間待ちで利用したのだと思うけれど、もう一度立ち飲み屋に入ることになった。デビューから2,3年経過していたのではなかっただろうか。以前のイメージからあまり居心地良くないだろうと覚悟していたので、一杯飲んで、さっさと出ようと決めていたのである。

 ところがである。幸か不幸か、僕の横には極めて陽気なおじさんが立っていたのである。僕が串かつを取ろうとした瞬間、「兄ちゃん、それは違う」と、その陽気なおじさんが声をかけてきたのである。「串かつはな、こうしてキャベツを巻いて取るんや」と、陽気なおじさんが実演してみせる。僕はなるほどと思った。揚げたての串はまだ熱いので、串の部分にキャベツを巻いて持つということを僕は初めて知った。それまで、あのキャベツはサービスで食べ放題のツマミなのだろうとしか見做していなかった。それにこういう実用的な意味合いがあったということなのである。

 それだけではなかった。おじさんは「ええか、ソースは二度づけしたらアカンって書いてあるやろ。でも、一回つけてソースが足らんかった場合にはな、こうするねん」と、キャベツでソースを掬って受け皿に入れるのである。僕にとっては二度目の驚きである。キャベツが柄杓になるのである。あのキャベツにそういう用途があったなんて、僕は気づきもしなかった。僕はケーラーの実験を思い出した。

 ケーラーのチンパンジーの実験がある。檻から遠く離れた所にバナナが置いてある。檻の中のチンパンジーには、バナナは見えているけれど、手が届かないのである。チンパンジーの檻には二本の棒が置いてある。その棒を使っても、やはりバナナには届かないのである。試行錯誤を繰り返し、このチンパンジーは二本の棒をつなげるということを発見した。それによりバナナを手繰り寄せることができたというものである。つまり、そこに在るものを道具として上手に活用しているのである。

僕は立ち飲み屋で、キャベツはキャベツとしか認知していなかったのであるが、このおじさんたちは、キャベツは布巾にも柄杓にもなるということを知っていたのである。僕はケーラーのチンパンジーよりも知能がないのかもと思ったものだった。そして、立ち飲み屋がこれだけ工夫をこらしているのだとしたら、僕はもっと勉強になることがありそうだと思ったのである。そうして、僕の立ち飲み屋通いが始まったのである。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

(付記)

 懐かしい思い出だ。飲み屋には、それも安っぽい飲み屋になるほど、こういう陽気なおじさんがおられるものだ。その人たちが酒飲みのマナーを若い人に教えて、その人がまた若い人に教えて、それが連綿と続いてきたのだろうなと思う。今、お酒を飲む若い人たちは、こういうおじさんから手ほどきされる機会がないだろうなと思う。ある意味で、それも可哀そうなことのように思えてくる。

(平成25年6月)

 

 

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