10月21日(日):ギャンブル依存2
昨日書いたように、ギャンブル依存に取り組みたいと思っている。ギャンブルに限らず、依存症の問題は現代の私たちにはとても身近な問題だと僕は考えている。依存症は、その人からあらゆる活力を奪うものだ。なぜなら、人間のエネルギーには限界があるし、そのエネルギーをどこに分配しているかで、その人の活動量が制限されたりするからだ。
基本的に、依存症というものは、その依存対象に多大なエネルギーが注入されるものだ。従って、それ以外の部分のためのエネルギーが残されていないということになる。実際、あるギャンブル依存症の人は、普段の生活では「虚脱状態」だった(これは本人が述べた言葉である)というのも当然のことである。
しかしながら、ギャンブルというのは、何が魅力なのだろう。賭け事というのは、勝てば賭け金が手に入るものだ。これは不労所得ということである。この不労所得の魅力は僕にも理解できる。宝くじを買うという人も、ある意味では不労所得の魅力に取りつかれているわけだ。そして、この不労所得は、困ったことに、自分のために他人が負けてくれたらいいという、非常に自己中心的な考え方を基にしている。
不労所得とは何事かとお怒りになられる方もおられるだろう。ギャンブルで勝つために日夜研究し、何度も負けてまで成果を実戦で試しているのに、それを不労所得などと言うのはけしからんとおっしゃられる方もおられるだろう。でも、やはりそれは不労所得なのだと僕は考える。
これは不労所得と言う前に、何をもって労働とみなすかということから考えていかなければならないことだ。労働とは、一般に我々が理解している限りでは、それは何かの産出や製造に携わったり、何らかのサービスや福祉に努めているというものだ。法的に見ても、それらを労働とみなしているのではないだろうか。
パチンコとかギャンブルというのは、だから労働ではないのだ。物を生み出しているわけでもなく、誰かにサービスを提供しているわけでもない。勝てば金品が獲得できるとはいえ、それは労働による代価ではないのだ。
従って、ギャンブル依存の人は何か労働、就労に関してのトラブルを抱えているかもしれないという仮定が成り立つ。僕はこれはけっこう該当する人が多いのではないかと思っている。
もし、彼らが「働くこと」に関して、障害を感じているのであれば、それはギャンブルの問題ではなく、神経症の問題である。従って、そのような状況にある人は、ギャンブルの問題だけでなく、「労働」の問題にも取り組んでいく必要があると思う。そこが何とかして克服される必要があるわけだ。
ところで自助グループというものがある。ギャンブルならGA,アルコール依存ならAAといったグループがある。僕も参加したことがある。それを否定するつもりはないけれど、ああいう自助グループはどこか片手落ちという感じがしないでもない。そこに僕は、個人的にだけど、不満を感じている。僕のグループワークでは、そこで抜け落ちてしまっている部分も取り上げたいという理想を掲げている。まあ、現実にはどうなるか、今の段階では何とも言えないのだけれど。
でも、これだけは言えると思う。アルコールであろうとギャンブルであろうと、その人がそれを必要とした動機を無視して、その人からそれだけを取り上げるというやり方は不十分であると。もし、それをしたら、その人はただ欠乏だけを体験するようになるだろうと思う。それは結果的に、彼の人生を貧困化するだけになるかもしれない。それは、問題行動がなくなったとは言え、彼自身が幸福な人生を送れるようになったという意味ではないと僕は考えている。
つまり、ギャンブルをやめるということは望ましいことであるが、ただやめればいいとか、取り上げればいいという考え方には僕は賛成できないのだ。ここはとても繊細な問題である。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)