10月21日(火):キネマ館~『SAWソウ』
午前中は家の用事ででかけていた。半日で終わる要件だった。
昼前に帰宅して、それから昨日レンタルしたDVDを鑑賞する。
今日観たのは「ソウ」(SAW)という映画だ。2004年公開のホラー映画で、すごくヒットして続編が6作も作られたものだ。
ホラー好きの友達がやたらと推薦していて、僕もその場のノリで一度観てみるとつい約束してしまったのだ。その約束をいささか後悔しているけれど、でも約束は果たしておこうと思い立ち、本当はホラー系は得意じゃないのに、今回鑑賞することにしたのだ。
まあ、作品はすごく面白い。殺人の描写が残酷だけれど、それを除けばサイコスリラー系の物語だ。
まず、医師のゴードンとカメラマンのアダムが古びた浴室で目を覚ますところから始まる。彼らは足を鎖でつながれており、中央には拳銃自殺した男の死体がうつ伏せに倒れている。彼らはポケットからカセットテープを発見し、死体が手にしているテープレコーダーを手繰り寄せて再生する。「ゲームをしよう」と、不気味な声が流れる。彼らは連続殺人鬼のジグソーに捕まったのだ。
浴室内の二人、それにゴードン医師の妻子など、現在進行形の物語に、彼らの回想やジグソーを追う刑事たちの活躍が挿入され、物語が膨らんでいく。
最後にはどんでん返しが用意されているのだけれど、「ああ、そうかっ!」と思わせられる。犯人を示唆するセリフがいくつかあったことを思い出す。例えば「犯人は最前列で見るのが好きだ」というセリフもそうだった。また、隠れ家に踏み込まれて刑事に押さえられたジグソーが「私は病気だ。内側から病に侵されている。生に感謝しない者どもに復讐するのだ」といったセリフも意味深だ(劇中、病人が一人だけ登場する)。そうした謎解きの面白さも秀逸だ。
しかし、見終わっても釈然としない。それがなぜなのか、今日、残りの半日かけて考えていた。少し映画の内容に触れることになるけれど、僕なりに見出したことを述べようと思う。
作中、ジグソーの過去の犯罪が挿間されている。例えば、ある放火犯は毒物を飲まされており、解毒剤が金庫の中にしまってある。壁には一面にぎっしりと数字が書かれており、その中のどれかが金庫の暗証番号だと知らされる。彼はろうそくの炎を頼りに数字を読んでいかなければならないのだけれど、全身に引火性物質が塗られている。その上、金庫と壁の間にはガラスの破片がびっしり敷き詰められている。結局、彼は助からない。
もう一人、麻薬中毒のアマンダは、頭部に逆トラバサミ器具を装着されている。時間内に鍵を開け、器具を取り外すことができれば助かるが、間に合わなかったら頭部が破壊されてしまう。同じ室内には男の死体があり、鍵は男の胃袋の中にあると教えられる。アマンダは生き残るために男を切開し、内臓を引きずり出して鍵を発見し、器具を取り外すことに成功する。ジグソー事件唯一の生存者となる。
さて、ゴードン医師が受けた指令は何であったか。「6時までにアダムを殺せ。そうすれば助かる」というものだった。この違いに釈然としない感じが残ったのだと僕は気づいた。
つまり、放火犯やアマンダの場合、助かる「方法・手段」を教示されているのに、ゴードンは助かる「条件」を教えられているというこの違いだ。
この違いはゲームの構造の違いに起因する。それまでは「1P」のゲームだったのが、ゴードンたちの場合、「多人数同時参加」型の状況なのだ。
同一犯による連続殺人というものは手口や状況が一貫しているものだ。違いが生じるという場合、次のような可能性が考えられる。
1・犯人が複数である
2・犯人の人格が変わっている。(犯人が人格的に成熟している場合などを含む)
3・その被害者だけが犯人には特別な意味合いがある。
などである。1と2は除外してよさそうだから、3のところが劇中でもっと説明されていればよかったと僕は思う。まあ、個人的な感想だが。
こうして友達との約束も果たしたことになった。今度彼と会った時には「SAW」談義もできそうだ。続編もぜひ見るべきだと言われたら、うーん、今度は約束しないでおこう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
ホラー映画好きの人とは友達にならないでおこう。いろいろと作品を勧められて、何となく観なければならない感じになってしまうからだ。ホントはホラー系は得意じゃないのに、ホントは人一倍怖がりなのに、そういう映画を観なくてはならない羽目に陥ってしまう。
(平成29年2月)