10月20日:自分を疎かにする罪

10月20日(月):自分を疎かにする罪

 昨日書いた「おばさん」のことを意識してか、昨日も今日も気持ちの上で動揺がある。
 僕はあの時見捨てられたとずっと信じてきた。今でも信じている。一時期はそれが僕に重くのしかかっていた。自分は捨てられる人間だという意識に囚われ、不必要に苦しんできたように思う。
 今では、年を取ったせいもあるかもしれないけれど、見捨てられたのなら見捨てられた人間として堂々としていようとさえ思う。一度、あの時に見捨てられたのだ。二度見捨てられようと三度見捨てられようと、何の違いがあるというのか。百回見捨てられようと、僕には同じことだと思えるようになっている。
 しかし、まあ、不思議なことに、何度でも見捨てられて構わないと思っているけれど、意外と見捨てられることなく生きてきた。一度見捨てられた人間は、それで十分だということなのか、二度目を経験することはないのかもしれない。

さて、昨日は午後から出勤して、3人のクライアントと会った。気持ちが動揺している中での面接だった。よりによって、辛いことばかりだった。
 最初のクライアントは自責感情にひどく囚われている人だった。自分に罪があるという感情に襲われている人だ。彼の話を聞きながら、僕は思っていた。本当の罪は自分を疎かにしてしまうことにあると。自分の感情や欲求に不忠実すぎることが一番の罪だとさえ思う。
 二人目のクライアントは、これもよりによって別離を経験した直後という人だった。彼が大切に思っている人と別れたという話をしている時、僕は彼に耳を傾けながら、どこか心を閉ざしてしまっている自分に気づいていた。
 三人目は新規のクライアントで、急遽、当日の面接となった人だ。ここに至ると動揺どころか怒りさえ感じているようになった。彼は自分が変わっていくことに対してガチガチに抵抗している人だった。自分が抵抗しているということに彼は気づいていないし、どういう形でそれをしてしまっているかにも気づいていない。継続すると骨が折れそうだと僕は感じている。

 今日は比較的ヒマである。月曜日は最近はそんな感じである。クライアントのことはあまり書かないでおこう。昨日よりも気持ちとしては落ち着いているが、まだ何かの拍子に揺れ動くことがある。特に集中を欠くことが多かった。
 少し早めに仕事を終える。どうしてもしんどくなってきたからだ。明日は休日なので、ゆっくりしようなどと考えている。
 この後、久しぶりに映画を見ようと考えている。DVDをレンタルしようと思う。それから少しお酒を飲もうと思う。イライラする気持ち、居ても立ってもいられないような焦燥感に襲われていて、少しこれらを鎮めないといけないと感じている。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 自分を疎かにすること、これ以上の罪はない。それは今も信じている。「おばさん」の死によって僕が動揺するのは、僕がすべてを避けていたからだと思う。それこそ自分を疎かにすることなのだ。数日前の「ホームレスを諭す夢」はこれと何か関連しているのかもしれない。
(平成29年2月)

 

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