10月18日(火):突然の休日
今日は定休日だけど、サイトの作業があるから職場に出ようと決めていた。家を出て、電車に乗って、僕は「あっ!」と思った。鍵を忘れてしまったのだ。いつもは背広のポケットに入れっぱなしにしているのだけど、今日は私服で家を出てきたのだ。
僕は電車を乗り換えて家に帰ろうとした。だけど、そこからまた出直すのも億劫だなあと思い、結局、そのまま京都の河原町まで行った。用があるわけでもないのに、河原町で降りてぶらぶらする。
なんだかんだの仕事で、休日が潰れることが続いた。鍵を忘れたのは、これはこの辺りで「休め」ということなのだなと勝手に意味づける。丸一日の休みは一か月ぶりくらいではなかろうか。
去年はとても忙しくて、5月から10月までおよそ半年間、一日も休めなかった。今年はそれに比べると暇である。月に一日も休むのは贅沢な限りである。遊びたいとはあまり思わない。娯楽は必要だと言う人もいるかと思うのだけど、毎日が充実すると人間というものはそれほど娯楽を必要としないものだと僕は思う。
しかし、こういうことになるなら初めから休んでおけば良かった。山歩きには絶好の天気だったからだ。観たい映画もあるし、美術館にも行きたいと思っていたのだ。もっとこの休日を有効活用できたはずなのに。
さて、河原町に出てから、ぶらぶら歩く。古本屋に立ち寄り、薄い本だけど四冊衝動買いする。ハブロック・エリスの古い本を見つけたので、即買いしてしまったのだが、その他の三冊は衝動買いである。買うとすぐ読みたくなるので、喫茶店に入り、四冊すべて紐解いてみる。結局、他の三冊の方が面白くて、本命のエリス以外の本を二冊、そこで読み終える。
あまり長時間粘ると、店に悪いと思い。三冊目に突入する前に、一旦外に出る。鴨川べりに出て、そこで職場で食べようと思って用意した弁当を食べる。夕方四時の昼食である。
鴨川のほとりで独り佇んでいると、女性友達と別れてから初めての休日だなということにふと思い至った。一瞬、別れたことを後悔した。休みの日は、とにかく彼女と少しでも会うようにしていた。もう、これからはあの苦労もしなくていいのだと思うと、楽になったような虚しいような、どっちつかずの感じに襲われる。鴨川を眺め、タバコをふかしながら、この感情としばらく付き合ってみる。本ばっかり読む生活を変えたかったけれど、気がつくと、以前の生活に戻っている。彼女と付き合うことで、僕は自分を変えようと思っていたけれど、変わらないままの部分が残ったようだ。
そんな考えに耽っていると、タバコを吸うこともしんどいなという思いが生じてきた。タバコをそろそろ止めてみようという気になった。酒を止める時、タバコも止めようかと考えた。しかし、一度に一つずつ取り掛かろうということで、先に酒から取り組んだのだ。断酒は九か月以上続いている。一方、タバコの方はそのままになっている。もうそろそろ取り組んでもいい頃だと思い始めた。
鴨川の堤防から、木屋町通りを歩く。この辺りは風情がある。古い、昔ながらの佇まいを見せていたりする。今日は、見ていて、いいとは思わなかった。古い物を保存するのは結構だが、「伝統」に縛られるのが京都の良くない所だと僕は思っている。「伝統」重視の思想は、時に危険である。そんなことを思いながら歩いた。
後になって、僕がそんなことを考えたいきさつが理解できた。僕は自分の中に変わらないまま残っているものを見た。それを見た後で、木屋町の風情ある通りを見たものだから、変わっていない自分に腹を立てていると同時に、昔ながらの通りに対して反感を覚えていただけなのだ。投影というやつだ。
今、時刻は夕方五時。遅い昼食の後、もう一度ぶらぶらして、再度喫茶店に入って、これを書いている。今日も酒は飲まない。タバコもちょうどなくなった。これを機にタバコとも縁を切ろう。彼女と別れて、彼女と出会う以前の僕に逆戻りしたとしたら、僕は彼女と出会って何も変わっていないことになる。そうなると、彼女は私にとって何の意味もなかった存在になってしまう。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
そうか、僕の再飲酒は女性友達の存在を消去したかったからなのか。そんなことをふと思う。タバコとは縁を切れないでいる。何となく、僕は以前とは違ったなと感じているのだけれど、変わらない部分もたくさんあるなと改めて思う。
(平成25年6月)