10月18日:「面倒を見る夢」
夜勤明け。帰宅して、すぐに眠ってしまう。その時、こんな夢を見た。
(夢)「僕は独りで歩いている。古い校舎のような感じの建物で、廊下を歩いている。僕がその廊下を歩いていると、後ろから僕にぶつかる者がいた。それは女の人で、その女性は僕を突き飛ばすようにすると、猛ダッシュで少し前方の部屋に入って行った。何だろうと思って、その部屋の方に僕は向かう。「便所」と札が掛かっている。僕は今の女性が急いでいた訳が分かった。と、その時、その女性が泣きながら出てきた。ズボンを半分ほど下ろしたまま滴らせている。つまり漏らしたわけだ。僕は彼女を外に連れ出す。小さな池があって、そこで彼女に体を洗わせる。僕は彼女のズボンを洗う。ズボンを洗う僕の傍で、彼女はキャッキャッと愉しそうにはしゃいでいる。僕もイヤな感じはしていなかった」
目が覚めると、案の定、尿意を催していた。もし、僕が空腹だったとしたら、この夢は、女性が食べこぼして、僕がその服を洗うという夢になっていたかもしれない。尿意を催していたからこういう夢を見たという説明を僕は受け入れない。それは正しくないと思うからだ。
こういう夢はホッとする面もある。僕は関係性を有している。関係性に困難さを経験する人は、夢でも人と関わらない夢を見る傾向があるように思うからだ。
そして、こういう夢に、僕は自分の困った面をも見てしまう。親役割を採ってしまう傾向を思い知るからだ。
一方、この女性に対して、僕は養育的な態度で接している。この女性の後始末をし、面倒を見ているという感じだ。それがまるでイヤな感じがしなかった。
夢の中のこの女性は大人の女性だったが、行動を見ると、小さな女の子のようなイメージが浮かぶ。大人の女性に対して子ども扱いしてしまう傾向を示しているのかもしれないし、夢の中で僕は自分の何かを養育し始めているのかもしれない。この女性は現実にはいない存在だ。未知の女性だ。それは僕の中の何かが人格化され、視覚化されていると考えることもできる。僕は幼児的で、粗相してしまうような自分のその部分に対して、親的な養育と言うか、面倒を見ているというわけだ。僕はこの夢をそのように感じ取っている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)