10月17日:酒の話(2)

10月17日(月)酒の話(2)

 

 酒とタバコと、どちらがより害があるかと問われれば、僕は間違いなく酒の方が害が大きいと答える。大抵の人は逆で、タバコは百害あって一利なしだと考えている。そして、酒の方はというと、酒は百薬の長でもあるとみなしていたりする。僕は逆なのである。僕にとって、酒の方が百害あって一利なしなのである。

 お酒の問題で、まず大きいのがお金である。「酒・ギャンブル・女」、この三つは男が身を持ち崩すことになる三大悪だと僕は捉えている。このうちの一つにでものめり込むと、その人は破産すること間違いなしである。タバコは、少なくとも今の所、これに入らない。タバコの吸い過ぎで破産したというような人を僕は聞いたことがない。

 身体に関しては、タバコも酒も身体のどこかを痛めるものである。その点に違いはない。タバコでは主に肺がやられ、酒では主に肝臓がやられる。どちらも身体の面から見れば害であることに違いはない。片方だけがより体に悪いとみなすことは、もう一方の害に目を背けることになる。これは自分が弁護している側に関係する。酒飲みはタバコの方が毒だということを言って、酒の方の害悪からは目を背けるものである。

酒は肝臓を傷める。肝臓がやられると気力が失せるものである。よく「肝っ玉が大きい」などと言ったりするが、肝臓と気力とは関係があるのかもしれない。そのためか。酒飲みは気力に欠ける人が多いという印象を僕は受ける。

 肝臓をやられると、身体がだるくなり、常にしんどい状態になる。それで遅刻したり、約束をすっぽかしたりする人が「問題飲酒者」には見られる。それはその人の信用を失うことになる。つまり、社会的な面においても、酒は害悪をもたらすものである。

 この信用を失うということであるが、酒飲みというのはとかく信用されないものである。いくら正しいことを彼が述べているとしても、「酔っぱらって物を言っているだろ」ということになれば、その言葉の信憑性は割り引かれてしまう。それに、酒飲みというのは嘘をついたりするのだから、その信用の失墜は目覚ましいものである。本人に嘘をつくつもりはなくとも、酒の席では尊大な話が飛び交うのが常である。それらはすべて「嘘」ということになる。

 西洋では酒に寛大であるように見えるのだけれど、一方では酔っ払いにはとても厳しいのである。だからその人が昼間から酒を飲もうと、商談の席でグラスを交わそうと、誰も何も言わないのである。しかし酔っぱらって酩酊してしまうと、あいつは飲酒をコントロールできない奴だなどと白い目で見られるそうである。日本は逆である。日本では、真っ昼間から酒を飲んでいたりすると白い眼で見られたりするが、酔っぱらって醜態を晒したとしても、「しょうがない奴やな」くらいで、意外と寛大なのである。どちらがいいとは言えないけれど、僕は個人的には西洋の感覚に賛意を表する。飲んでもいいが、酔っぱらってはいけないという方が筋が通っているように思う。日本の方は、飲んではいけないけれど、酔っぱらうのは構わないと言っているようなものである。矛盾したものを僕は感じるのだ。

 いくら日本が酔っ払いに寛大だからと言っても、醜態を晒してしまうと、それもまた信用に関わるものである。これから年末を迎えると、酒を飲む機会が増えるだろうけれど、醜態だけは晒さないようにしたいものである。もっとも、今の僕には関係のない話ではあるが。それに、一番いいのは、酒など一滴も飲まないことである。酒を飲まないということが一番安全なのである。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

(付記)

 当時は真剣に断酒していたんだなあという気がする。これを読むと、飲酒を再開したことを後悔したくなる。

(平成25年6月)

 

 

関連記事

PAGE TOP