10月14日(金):景気の話と内面化
景気が悪くて、どことも厳しいようだ。僕の所も一時期に比べて仕事が減ってきている。どこともそうなのだろうと思う。例えば、高槻界隈を見渡してみても、以前は繁盛していて、入れないくらいの店がガラガラだったりしている。飲食店に限らず、服飾関係の店や、百貨店などもそうである。一体、今の日本で誰が儲かっているのだろうかとまで思うくらいの閑散さを感じる。
団塊世代の人たちは、子供の頃は物がなくて厳しかったと言うが、彼らは経済成長を経験している。日本の右肩上がりを経験しているのである。今の人、あるいはこれからの日本人は、あれほどの右肩上がりを経験することはないのではと僕は思っている。
経済学者は様々な意見を述べる。いずれ景気が回復するだろうとか、バブルのようなことがもう一度起きるなどと言う人もいる。僕は経済に疎いからそれが本当かどうか分からない。しかし、景気が良くなったとしても、かつての高度経済成長やバブルのようなことがそのまま起きるとは僕は信じていない。中にはあのような波がもう一度来ると考えている人もいるようだけど、同じものは来ないと僕は思っている。
個人と社会という観点で考えた際、既に大人たちによって形成された構造の中に子供は生まれてくる、そして、子供はその構造の中で生きることを余儀なくされてしまうものである。例えば、子供は将来、国の抱える負債を負っていかなければならないのだが、その負債はその子が生まれる以前に拵えられたものである。常に、前の世代の負債を後の世代が負っていかなければならないのである。それでも今の世代は後世への負債を増やし続けているのである。「幸福の代償」(ロバート・シェクリィ著『人間の手がまだ触れない』ハヤカワ文庫所収)はこれをテーマにした面白い短篇である。
60年代のヒッピーたちはまさにそれを主張したのではなかったか。なぜ自分たちが生きづらいのかという苦悩に対して、それは親世代の社会のためだという考え方だったと僕は理解している。50年代の人たちは物質的豊かさが幸福をもたらすと信じて消費活動していたわけであるが、それが60年代の人たちには生きづらさの元凶であると見えたのだろう。それで東洋思想がもてはやされたり、より内面へと向かう動きがつよかったのだろう。僕はそのように理解している。
今の日本もそれに近いものがあると僕は思う。外側の世界に行き詰まりを感じると、人はより内的な何かを求めるようになるものである。カウンセリングが注目されるのも理解できるのである。しかし、僕から見ると、臨床心理学はその要請に応えるに足りる学問とは思えない時がある。
俗に言う「癒し」産業なるものは、その内的な「何か」のきわめてよくできた「模造品」を人々に提供していると僕は考えている。「癒し」産業、例えばリラクゼーションであるとか、あるいはスピリチュアルとか前世がどうこうという類のものまで、結局は人をして外側に目を向けさせる結果になっていないだろうかと僕は思う。別れた女性友達がリラクゼーション関係の仕事をしているので、彼女からその利用客というものがどういう人たちであるのかということを、大体知っている。内的な「何か」を求めているのに、それでリラクゼーションに通うのだけど、常にその「何か」は獲得されずに終わっている、そういう印象を僕は受けるのだ。
僕たちはもっと内面的な「何か」を獲得したいと望んでいるのではないだろうか。内面的な「何か」に気づこうと思えば、内面に目を向ける必要があると僕は思う。しかし、内面に目を向けるということに関しては、僕たち退化しているのかもしれない。なぜなら、外側があまりに騒がしいからである。
この「何か」がどういうものであるのか、僕自身十分には知っていない。一生追及していくことになるかもしれない。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
当時はこう考えていたのだな。今は少しだけ考え方が進展している。
人は自分の中に望ましいものがあるということに気づかないなら、あるいは自分の中の望ましいものが見えていないなら、どうしても自分の外側に望ましいものを求めてしまうということだ。
つまり、「獲得」されていないのではない。気づこうとしても気づきが得られず、見たいのにそれが見えないということなのだ。
(平成25年6月)