10月11日:女性友達たち

10月11日🈷月):女性友達たち

 

 女性友達とは別れた、もう会わないと決心してから、もっと彼女のことで苦しむだろうかと思っていた。でも、今の所、それほど苦しくはない。時折、彼女のことを思い出す。それで日常が妨げられるということはない。当分は頻繁に脳裏をかすめていくだろう。それを僕はそのままにしておく。心の方で喪の作業が進展していくだろうから、僕はそれに従う。無理に忘れようとか、そういうことはしない。

 彼女には謝らなければならない事柄もたくさんある。感謝しなければならない事柄も同じようにたくさんある。それらを彼女に伝えることなく終わるのは心残りである。恨むことや腹の立ったことなどもあったけれど、それももう過ぎたことだ。今さら、どうなるというものでもない。

 彼女と友達になった時、「きっと、彼女も『病んで』いるのだろうな」と予測していた。この予測は、初日から当たってしまった。なぜ、そんな予測を僕がしていたかを話す。

 

 これまで僕が友達になった女性というのは、振り返って見ると、どこかみんな「病んで」いた。「病んで」いない女性とは、それほど仲良くなれなかったのである。

短い付き合いだったけれど、何回か交際した女性がいる。僕はてっきり彼女はパチンコで生活しているものだとばかり思っていたのだけど、職業を聞いてみるとヘルス嬢だったのである。彼女の仕事が終わって会う。それまで他の男のモノを咥えていたのだということは分かっていたけれど、別に不快感も僕にはなかった。仕事でそれをしているだけだということを僕は知っていたから。

別の女性とも交際したことがある。そのキャバクラ嬢は、僕が酔っぱっらて入った店で働いていた子だった。連絡先を交換し合って、店の外で会うようになった。彼女の両親はグウタラで、彼女の稼ぎを当てにしているような親だった。4人家族を彼女が養っていたのだ。彼女がいくら稼いでも、その大半を親が持って行ってしまうのだ。それでも、彼女は家族のために働いていた。

一緒にパフェを食べるという「パフェ友」の女性も、爪を剥がして遊んでいた子供時代を持っている。複雑な家庭環境で育ったらしく、そうとう苦しんだだろうと思う。彼女は定職に就いていなくて、当時、アルバイトで凌いでいた。

 僕の実家の近所でバーを経営していた女性とも仲が良かった。飲みに行って、店が終わってからさらに二人で飲みにいったことも何回もある。僕がお酒を止めて、会うこともなくなったけれど、店の方はもう閉めてしまったらしい。彼女は手首に切り傷がいくつもあった。

 大山崎の作業所で働いている女性とも知り合った。彼女と友達になろうとして、ボランティアで働いたこともある。彼女は小さな作業所を何とかやりくりしていて、僕は偉いなと思っていた。ただ、彼女に関しては、後であまりいい噂を聞かなかった。その噂が本当かどうか知らないけれど、僕はあまりそういうことを気にしない人間のようだ。

 その他、「トンネルを抜けると、血まみれの両親が倒れている」という夢を繰り返し見るという女性バーテンダーとも仲が良かった。

友達付き合いをしたわけではないけれど、飲み屋で働いていた女性で、僕に気があるようだと耳にした女性は、どこか不幸な影を背負っていた。病弱な感じで、翳りがあるという人だった。クリニック時代に僕に何度か贈り物をくれた女性は「境界例人格障害」の診断をもらっていた。

こうしてみると、そういう系統の女性に僕は人気があるようだ。そういう女性が僕に惹かれるのか、僕がそういう女性に惹かれてしまうのかよく分からないけれど、精神的に「病んで」いるような女性とは不思議と縁があったようだ。

 

 不思議なもので、女性友達と別れると、これまで知り合った女性たちのことをこうして思い出している。自然と思い出されてくるのである。中には忘れていた人たちもある。彼女との別れに対して、フォローしてくれているような感じがある。きっと、「防衛機制」として現れている現象なのだろう。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

 

(付記)

 女性友達と別れて、これまで出会って別れた女性たちのことを思い出すようになっている。しかしながら、縁のあった女性たちというのが、風俗嬢であったり、キャバクラ嬢であったり、バーテンダーやリストカットしていたりとか、境界性人格障害の診断を貰っていたりとか、やたらとそういう女性たちばかりだったな。僕から見ると、みんないい子だったのだけれど、そういういい子が生き辛い世の中なのかなとも思う。

(平成25年6月)

 

 

 

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