1月7日(月):体罰問題
このブログでは、あまり時事ネタや社会問題ネタを書かないようにしているのだけれど、今日はそのルールを少し破ろう。
体罰問題が盛んに取り上げられている。大阪の高校で、部活の顧問が部員生徒に体罰をして、それを苦にその生徒さんが自殺してしまったという事件だ。
連日、この事件はテレビなんかで報道されているし、我々の日常のちょっとした会話でもこの話題が出ることもある。
そういう話の中で、僕が不思議に思い、尚且つ憤りさえ感じるのは、「昔はそういう先生がよくいたものだ」という類のコメントである。この種のコメントは、自殺した生徒とその遺族の方々を冒涜するものだと僕は捉えている。なぜなら、このコメントは先生の方を弁護していることになるからだ。
つまり、「昔はそういう先生がよくいた」とは、言い換えると、「昔の生徒はそういう先生に耐えてきた」ということになりはしないかね。そうなると、「自殺した生徒に忍耐が足りないからこうなった」という結論に行きつくのじゃないか。僕はそんな風に聞こえてしまう。
でも、はっきり言う。ああいう先生は昔はいなかったのだ。体罰という、先生が生徒を叩くという表面的な類似で物事を見るからそんなコメントが出てくるのだ。果たして、一人の生徒を連続して10発も20発も殴り続ける先生なんてものは、昔はそんなに存在していたのかね。僕は一人もそんな先生を見たことがない。
昔の先生が生徒を一発パシンとしばくのと、この体罰教師とを同一視してはいけないのだ。仮に表面的な行為に類似のものがあるということを認めたとしても、その行為を取らせている内面の動機はまるで違うものだと僕は捉えている。
自殺してしまったその男子生徒がこの体罰教師の内面に抱えているコンプレックスを刺激してしまうというようなことがあったかもしれない。でも、それは基本的にはこの教師の側の問題であり、この教師が克服していかなければならない課題だったのだ。僕はそう捉えている。
さらに僕はこのように考えている。この高校生が自殺したのは、体罰のためではないのだ。体罰がこの生徒を追い込んだのではないのだ。この教師がこの子に対して向けているものに追い込まれて、それが苦しかったのだと思う。自殺の本当の要因はそれだったのではないかと思う。そして、教師が向けているものというのは、この教師が内的に抱えている破壊性なのだ。教師は自分の内面に君臨する望ましくない対象を破壊したかったのではないかと思う。この教師は内的な対象関係を外在化してしまったのではないかということなのだ。
この生徒は不幸なことに、この教師の否定的な対象関係と同一視されてしまったわけだ。僕はそのように捉えている。従って、この子に何かがあって体罰をされたという議論は問題外なのだ。この教師のこの子への体罰に、論理的な理由などないのだ。すべて、教師の無意識の理由によるものだ。僕にはそう思えてならない。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)