1月6日(日):キネマ館~『魚が出てきた日』
・『魚が出てきた日』
なんとも不思議な映画なんだけど、僕は見事にハマってしまった。久しぶりにいい映画を観たという気持ちになった。
(冒頭エピソード)
冒頭、ナレーションがあるエピソードを語る。それは次のようなものだ。
1966年、核爆弾を搭載した軍用機がスペインに着陸した。軍は密かにそれを回収した。観光地ではどうなることかと息をのむが、彼らは笑った。もっとも笑ったのは現地のスペインの人たちだった。
これは何かと言うと、核の脅威に対して彼らの自我が適切に反応することができなかったということなのだと僕は思う。従って、もっとも笑う者がもっとも脅威を感じていたのである。さて、本作で最後に笑うのは誰か(実はこのナレーションがその伏線になっている)。
(オープニングロール)
上述のエピソードと歌があって、本作のオープニングのタイトルロールが流れる。この部分を作成したのがモーリス・ビンダーだ。007シリーズのタイトルロールを担当してきた人で、本作でもこの人のテイストが伝わってくる。アニメーションやシルエットなんかを使用して、どこか独自の雰囲気があると僕は感じる。
(物語)
ここから物語が始まる。舞台はギリシャの小さな島であるコロス島。島の大半は岩場で、漁村しかない貧しい島であり、決して観光地には選ばれないという場所である。
この島の上空で軍用機が墜落した。パイロットたちは搭載していた爆弾2基と格納庫のコンテナを島に降下させる。
島に暮らすヤギ飼いはコンテナを見つけ、宝物が入っていると信じ、家に持ち帰り、以後、コンテナをこじ開けようと四苦八苦する。
パイロットたちは、なぜかパンツ一丁の姿で島に上陸する。彼らは助けを求め、基地に連絡しようと四苦八苦する。
この情報をつかんだ軍隊は、ホテル建設の使節団を装って島に上陸し、密かに爆弾を探すのだが、村人たちの歓迎を受け、四苦八苦する。
物語はこの三者それぞれのエピソードを紡いで展開されていく。
軍は爆弾を発見し、その一帯の土地を買い占める。この情報が報道され、各国からホテルが建設され、一気に観光客が押し寄せてくることになる。なお悪いことに、道路工事の現場で過去の遺物が発見されるや、またもや世界各国から考古学者たちの一団がコロス島に殺到することになる。こうしてコロス島は一躍人気観光地になってしまったのである。
(隠蔽と虚偽・欺瞞)
全体を通じて、登場人物たちから僕が感じるのは隠蔽ということと虚偽とか欺瞞という行為だった。
軍隊は、本当はそこに危険物があるのを知っているのに、それを隠し、あたかもそんなものは存在してないかのように振る舞う。隊長はギリシャ語を話せるのに話せないフリをする。
ヤギ飼い夫婦は、自分たちは遺失物を拾い、匿っているのだけど、そんなものは知らないというフリをする。コンテナを開けて、中身が価値のないものだとわかると、人知れず海に処分し、知らんぷりを演じる。やはり隠蔽と虚偽・欺瞞である。
二人のパイロットたちも、自分たちが何者であるかを隠そうとする。そして物乞いのフリをする(というか自然にそうなるのだけど)。やはり隠蔽があり、虚偽や欺瞞がある。
考古学者の美人助手のエレクトラも、愛情なんてないのに、考古学者や隊員のピーターと付き合う。観光客たちは、外に恐ろしい光景を見たにも関わらず、何事もなかったかのように踊り、飲み食いする。これらの人たちからも隠蔽と虚偽・欺瞞を僕は感じてしまう。
そもそも、冒頭の1966年のスペインのエピソード自体が隠蔽と虚偽なのだ。人々は本当は脅威に晒されていたのに、彼らは笑う。これも一つの欺瞞ではないだろうかと、僕は思う。
これら隠蔽とか虚偽・欺瞞という行為が、本作全体の通奏低音のように僕には聞こえてきた。
(タイトル)
さて、本作のタイトル『魚が出てきた日』であるが、これは英語タイトル(The Day The Fish Came Out)の直訳である。原文がそうなっているのだから仕方がないのだけど、日本語のタイトルだけを聞くと、なんだかホノボノした雰囲気を連想させるかもしれない。
僕は、最初、特に根拠もないのだけど、この手のタイトルはメタファーか何かだろうと思い込んでいた。しかし、実際に映画を観ると、このタイトル通りの場面がラストに登場する。それは破滅の始まりの日という意味だったことに思い至り、改めてすごくいいタイトルだなと思った。
(徹底した無関心)
ラストで、観光客たちは海に異変が起きているのを知る。しかし、彼らはそれを大したことではないと思い込み、何事もなかったかのように踊る。緊急放送が「アテンション・プリーズ」と何度呼び掛けても、群衆は誰一人それに耳を貸さない。呼びかけが空虚に繰り返される中、踊り興じている人たちの情景が遠景になっていき、アイリス・インしていって、最後は一点の光点となり、その光も消えていく。そうして映画は幕を閉じる。最後の光は生命の灯が消えていくかのような寂寞感をもたらす。
ここで群衆たちが表現しているのは、外界に対する徹底した無関心であるように僕は思う。無関心って言うと正確ではないかもしれない。積極的に心を閉ざしている人たちであるように僕には感じられた。外の世界で起きていることは、もはや考えたくもないし、見たくもないし、意識から締め出してしまいたいということではないかと思う。それだけ、その異変の光景は彼らに脅威をもたらしたのだと思う。
(最後に笑う者)
この映画、最後に笑うのは誰か、しかも大笑いするのは誰か。ネタ晴らしになるけど、最後に笑うのは二人のパイロットのうちの若い方(トム・コートネィ)である。
彼は海の異変を見る。島民や観光客たちと違って、彼はそこで何が起きたのかを悟る。大慌ての軍人たちをよそ眼に、彼は観光客たちのテーブルから食料をかき集め、貪り食う。飢えていたためもあるけど、外部に対して無関心を決め込む。一心不乱に貪り食う姿は、見たもの悟ったもの、すべてを心から締め出そうとするかのようである。彼は核と放射能の脅威に直面してしまったのだと思う。
ちなみに、彼だけが「まとも」だったという印象を僕は受けている。もう一人の年長パイロットは、本当はパニックを経験していながら、そんなことはないという欺瞞を働いていいたかもしれない。
例えば、船が通りかかった時、若い方は助けを求めようと提案する。年長者はどんな言い訳をするかと問いただす。船が難破したことにしようと若い方が提案すると、こんな穏やかな海で難破する理由をどうするのか、さらに、どんな船だったことにするのか、船の名前はどうするのか、何て名前の奴から船を借りたことにするのかと、年長の方は矢継ぎ早に質問攻めする。こうした細部に至るまでの完全主義傾向や、質問攻めの強迫的な感じは、この年長パイロットが相当強い不安に襲われていたという印象を残す。この年長の方が、案外、事態に圧倒されていたのかもしれない。
若い方は、僕から見ると、かなり現実的に考え、現実検討を維持しているように映る。最後に大笑いして料理を貪り食う彼だけが唯一「正常」な人間だったのかもしれない。
(ダンスとファッション)
あとは余談を。1967年の本作は、その時代を感じさせる衣装が登場する。サイケデリックな雰囲気がプンプン漂ってくるのも見どころ。原色系のカラフルな服、メーキャップ、その他、種々様々な形のメガネなど、時代を感じさせる。
観光客が揃って踊る場面も多々あり、なかなか楽しそう。ダンスのことは分からないけど、けっこう特徴的なダンスなのではないかと思う。このダンサーたちは、登場人物たちの動きが少ない本作に躍動感をもたらしているように思う。そういう意味では重要な役どころなのかもしれない。
以上、『魚が出てきた日』について抱いた感想などを綴ってきた。本作の唯我独断的映画評は、断然5つ星である。非常によくできた映画だと思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)