1月4日:認知症の話 

1月4日(金):認知症の話 

 

 今年、最初の勤務である。昨日も一昨日も来ていたとはいえ、正式には今日からが初勤務だ。 

  

 朝、到着して、大掃除の続きを一時間ほどやって、それから今日の面接の準備をしている。少し、本を読んで、記録を読み直して、それからお昼だ。 

 ちょうど、これを書こうかなという時に、明日来る予定のクライアントからキャンセルの電話が入る。まあ、いいだろう。その人のカウンセリングも、続けて行けばいつか展開が生まれるかもしれないが、あまりそういう気配も見られない。僕の方はいつ終わってもいいと思っていた人だ。 

  

 今朝、父と認知症のことで話し合った。認知症は精神科医にかかると悪化すると、父がどこからか聞いてきたのだ。薬がよくないということらしい。恐らく、今後、そうならない薬が開発されるかと思うが、まあ、それはそれとして、父はそういう人がカウンセリングを受けに来たらいいなと言ってくれたのだ。 

 実は、認知症のクライアント、それも軽度の認知症であるが、そういう人が過去に数人おられた。僕はその人たちとカウンセリングをするのは苦ではない。でも、そういう人は、当然、高齢であり、費用はその子供さんなり、お孫さんなりが負担しなくてはならない場合が多い。それに送り迎えの問題もあるし、僕の面接室に入るために三階まで階段を上らなくてはならない。こういう負担のために、家族の方々が中断してしまうのだ。 

 

 ところで、認知症と言うと、あたかも脳の問題などと捉えられる傾向がある。それは事実そうなのかもしれない。脳の機能が低下しているのかもしれない。でも、認知症の人の話を聞いていると、そこには悲惨な環境があるのだ。家族から見放されているとか、虐げられているとか、そういう環境があったりする。 

 極端に言うと、つまり、そういう環境にあっては、意識が鮮明であるよりかは、ボケた方が生きやすいのだ。言い換えると、その人は認知症になることによって、その過酷な環境をどうにか生き抜いているということなのだ。 

 従って、僕から見ると、認知症というのは必ずしも脳の機能の問題だけではなくて、家族関係やその人の生活の問題、生き方の問題でもあるように見えるのだ。だから、カウンセリングをしていくことができるし、まだまだその可能性が残されていると思う。 

 ところが、大抵の場合、認知症に罹っている当人ではなくて、家族がカウンセリングの中断を決めてしまう。家族の負担が大きくなるということも確かではある。この問題をどうにかしなければ、父が言ってくれたことは実現が難しいと思う。 

 

 新年早々、あまり愉しい話題を提供していないな。それも仕方がない。僕自身がそういうのを書こうという気持ちにならないし、一人の人間が生きていると、いくつもの問題がその人に降りかかってくるものだ。それに目を背けて、快楽だけを追求する生き方はしたくない。一人の人には無数の不幸があり、それはその人に課せられた課題となる。僕にもそれはある。クライアントとともに、僕もその過程を歩んでいきたいと願う一年である。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

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