1月30日(月):女性友達に捧げる(23)
外車を乗り回し、マイホームを有し、今はそこそこ値段のするマンションに住み、ペットも飼い、洋服を次々に買う彼女は、僕から見ると浪費家である。おまけに美食家である。例えば彼女が焼肉を食べたいと言う。僕は1980円の食べ放題で十分だと思うのだけど、彼女は、そこは美味しくない、どこそこの焼肉屋でないと嫌だと言う。僕はついていけないなと感じる。
美味しくいただければ、安い店でも構わないというのが僕の考えである。そして、高額な料理よりも、安物でもいいから、一緒に過ごす時間の方に僕は価値を置く。その時間が愉しく、有意義な体験になるのであれば、そこで一万円のステーキを食しようと、「サイゼリア」の300円パスタであろうと、僕は一向に拘らない。
この違いは、僕はもっと内面的な事柄に価値を置いていることに対して、彼女が自分の外側の物に価値を置いていることの証左なのである。彼女は自分の外側の物を追及する。それはそれで一つの生き方かもしれないけれど、内面を耕さないので、内的は貧困なままである。
僕は一度、「それだけ働いて、何を追及したいの」というようなことを尋ねたことがある。何を達成しようとしているのか、何のために仕事に精を出しているのか、僕は知りたかった。彼女の答えは、目標金額を達成することだった。
お金というものはある種の人にとってはとても魅力あるものに映るようだ。僕の見解では、他に価値あるものが見いだせない場合、お金がとても魅力的に思われるということである。能力がなくとも、信用に値しない人でも、お金持ちということであれば、力があるように見えるし、信用されるのである。金銭はそれらを安易に獲得する手段だと僕は捉えている。
僕は、彼女はもっと貧しい人だと、最初は思っていた。だから美味しいものを食べさせてあげようと思って、食事に誘ったのだった。それが交際の始まりだった。しかし、蓋を開けてみれば、彼女の方がずっと裕福で、お金持ちのお嬢さんだったことが分かったのである。奮発して1200円のランチを御馳走して、それでいい気になっていた僕が恥ずかしいのである。
初めの頃、デートする時は、彼女がほとんどを支払っていた。僕はこれでは長く続かないと思い、少しでも割り勘にしようと思っていた。最後の方では、例えば、お昼を彼女が払ったら、夜は僕が払うというようにしてきた。僕は宣言するのであるが、僕は一度たりとも、彼女のお金を当てにしなかった。金を借りることもなかったし、金目当てで交際していたのではなかった。彼女にそれが信用してもらえるかどうか自信はないが、僕の中ではそう決めていたのだ。いっそのこと、彼女が一文無しになって、二人で一から生活できればいいと、僕はそう願っていた。
僕と彼女との間の、この金銭感覚の隔たりは、後々問題になるかもしれないと、僕は不安に思っていた。彼女が好きな物を買うことを止めさせるわけにはいかないけれど、お金を使わなくとも、有意義な時間や体験が得られるということを伝えたかった。どれくらい、それが彼女に伝わったことだろうと思う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)