1月3日(火):初詣の帰りに
昨日(2日)は、予定通り初詣に行く。天候がおもわしくなかったので、延期しようかとも考えたけれど、自分で決めたことは実行しようと思い、家を出る。雨が降ればルートを変更すればいいだけである。
初詣は西宮の「神呪寺」へ行くことに決めていた。このお寺には年に1,2回行くことにしている。2年くらい前からそうなった。神呪寺へ参ることにしたのは、あるラジオ番組がきっかけだった。神呪寺にお参りして、そこのお守りを持つようになってからお金に困らなくなったという人のことが紹介されていた。僕はこれを呑み屋で偶然聞いたのだった。それで、僕もあやかって、神呪寺にお参りし、財布にお守りを入れるようになったのだ。ただ、僕の場合、お金の工面に相変わらず奔走しているのだけど。
それはさておいても、この名前がいいと思った。「呪」という字は、昔は「ことば」を意味する字だった。だから「神呪寺」とは「神のことば」という意味になる。お金云々よりも、このネーミングが気に入って、定期的に行くようになったのだ。そして、「神の言葉」とは夢のことである。
さて、道中いろいろなことがあったが、ここでは帰り道で体験したことを書こうと思う。いつもなら駅までバスに乗るのだけど、どうもバスは混んでいそうな予感がしたので、歩いて下りることにした。その道は、バスでは通るのに、歩くのは初めてだ。
歩いていると、見ず知らずの男の子が「こんにちは」とあいさつをしてきた。僕はびっくりして、言葉が出なかったのだけど、なんとか会釈だけはした。あの子にそれが見えたかどうか心配である。無視されたとか思っていないだろうか。
住宅街に出ると、小さな公園があったので、ベンチで休む。歩きづめで少々疲れたのだ。その時、「どけえっ、こらぁ!」という罵声が轟いた。僕は驚いて、声のした方を見ると、それは原付に乗った若者が発したもので、道を歩いている女の子に投げかけた罵声だった。でも、その子はちゃんと歩行者のスペースを歩いている。何も交通の邪魔をしているわけではないのである。
少し離れていたので、僕はその女の子がよく見えなかったのだけど、小学生の高学年か、中学生といったところではないだろうか。独りで歩いていて、足取り重く、のそりのそりと力無げに歩いている。行くあてもなく彷徨っているような感じにも見えた。
僕はその子をしばらく見ていた。大丈夫かなと心配にもなってくる。見ていて、僕は思う。あの子は僕だ、と。かつての僕を見ているような気がしてきたのである。力なく彷徨い、独りぼっちだ。悪いことや間違ったことをしたわけでもないのに、罵声を発せられ、それに対して無抵抗である。この日、僕は何人もの幸せそうな家族連れや愉しそうな友達連れの人たちと擦れ違った。お正月でみんな浮かれている。しかし、あの子はそういう世の中の流れとは隔絶した世界に生きている。そんな感じだった。
僕は改めて意識した。常にその子のような人が存在するものである。世間の流れに乗れず、孤独で、力なく無抵抗で、生きているのか生きていないのかわからないような生気を欠いた人たちが。それなりに幸福な生活を送っていると、そのような人たちが存在することすら信じられなくなる。それでも、私たちに見えないだけで、存在するのである。そう思うと、まだまだ僕にできることはたくさんあると思えてきたのだ。延期しないでよかったと思う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)