1月27日:老化よりも諦め

1月27日(木)老化よりも諦め

 今日は月末の外回りをする予定だったので、朝はいつもより遅めに出勤した。銀行その他、今日回る予定のところが開くまでは動けなかったし、銀行なんかは空いている時間帯を狙って行かなければならない。朝一番辺りは人が多いだろうと思うので、その時間は避けるようにした。

 朝のワイドショーで老化のことを見た。老化を防ぐことができるようになるらしい。いつまでも若さを保つことができるようだ。それにより成人病その他の慢性病なんかも減少することが期待され、医療費の削減につながるということらしい。
 しかし、一方で、そのような社会になると、町からお年寄りが姿を消してしまうだろう。何よりも100歳を超えても現役で仕事をしなければならなくなるだろう。つまり、引退とか定年退職という概念がなくなっていくかもしれない。一生働き続けなければならなくなるかもしれない。そして、世代交代ということもなくなる。若い世代には厳しい状況になってしまうかもしれない。
 老化を防いでも死は訪れるらしい。生命の不思議なところだ。不老不死はあり得ないということだ。不老は可能でも不死は不可能だ。身体は人間が手を加えることができるけれど、生命は人間の手の届かないところにあるということではないか。人間は生命をどうこうできるなどと思いあがってはいけないのだ。
 解説していた医師が述べていたが、老化は病気であるらしい。僕は思う。人間は老いる存在である。そしておそらく老いるということには意味があるはずなのである。言い換えれば、人間にとって老いは自然なことである。本来医学に属さない事柄が医学化されていくところに、かつて反精神医学者が異議を唱えてきたテーマがあるのであるが、もう一度その異議申し立てをしていかなければならないのではないか。僕は不老に反対だ。

 テレビを見て、それから出勤だ。駅前のタバコ屋で今日のタバコを買っておく。貼り紙がしてあって2月で閉店することらしい。これで街のタバコ屋さんが一つなくなるのだ。だんだん「町の〇〇屋さん」というものが消えていくのは、なんだか寂しい感じがしてしまう。
 高槻の職場の隣にカメラ屋さんがあるが、ここも完全閉店の告知がなされている。街から商店がなくなっていく。景気の問題もあるだろうけれど、閉店して引退する気持ちってどういうものなのだろう。もっと店を続けたかったという思いもあるのだろうか。

 外を回って昼過ぎに職場入りする。まずは昼食だ。
 午後からはサイト関係の作業をする。一度、業者に連絡を取らないといけないなと思い続けていたのだけれど、それも今日実現する。
 このIT屋にはアタマに来ることが多い。うちのサイトがどういう状態なのか、実は他のIT屋から知らされるのが常だ。他の会社から情報を得て、このIT屋にそれを確認するという手順のことがけっこうある、というか、その手順しかない。向こうから連絡してくるなんてことはないのだ。要するに放ったらかしにしているということだ。
 向こうが放置してくるならこっちもそれなりの対応をするまでだ。こまめに連絡を取り合っていればこうはならなかっただろうという状況に陥るまでのことだ。困るのは僕よりも、むしろそのIT屋の方になる。

 クライアントからの連絡並びに問い合わせも4件ほどあった。あと、そのIT屋との連絡も含めて、午後からは電話に出る回数が多かった。それ以外は、ひたすら勉強して、サイト原稿を書いた。未公開のブログも公開しておいた。
 サイト原稿は二日で6ページ分書いた。A4用紙で18枚程度のものだ。一つのテーマで書いたが、内容がまとまっていないし、散漫な感じがする。もう少しスッキリさせて、文章も校正して、それから公開ということになりそうだ。
 ある程度仕上がったら先に公開して、後からリライトしていくという手も使えるのだが、公開したらそこで一区切りついて、次のテーマのことを書いていくだろうし、リライトする余裕ができるかどうかも確信が持てない。しかし、今度からそういうふうにしてもいいかもしれない。

 僕の中ではまだまだできることがたくさんある。できることはすべてやってみて、それでダメだったら諦めようと思えるだろう。でも、できることがあるうちは、まだ試みたことのないものがあるうちは、それが希望となり、また活力につながっていく。僕はまだ諦めるつもりはない。
 老化よりも、人生を諦めてしまうことの方が恐ろしいことだ。老化よりも諦めを僕は恐れる。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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