1月27日(日):キネマ館~『禁じられた抱擁』
『禁じられた抱擁』
ああ、嗚呼、アア、なんていい映画なんだ。いい映画過ぎて感嘆してしまう。
僕は時々こんな経験をする。例えばDVのようなケースだ。DVのような問題は離婚で終わることが多い。カウンセリングを受けると離婚しないかというと、そうでもない。カウンセリングを受けても離婚で終わることの方が多いのだ。カウンセリングを受けても受けなくても離婚で終わるのなら、そんなカウンセリングなんて意味がないじゃんなどと言われてしまうのだ。ところがどっこい、実際は違うのである。離婚の意味が異なるのである。この相違をどう説明していいかで僕は悩むのである。
時折、そんな僕の困惑を一気に解消してくれるような映画なり文学作品なりに出会うことがある。そういう時、「そうそう、それなんだよなあ、僕が言いたいのは」と、半ばため息交じりに、自分の中のジレンマを見事に表現してくれているような作品を称賛したくなる。
さて、本作であるが、当時、青春映画スターだったカトリーヌ・スパークが不良っぽい、スレた役を演じる。相手役はホルスト・ブッフホルツだ。
画家のディノ(ブッフホルツ)は行き詰まっていた。作品が描けないというスランプに陥り、これまでの作品を切り刻む。その時、一人の女が目に入る。同じフロアの向かいの部屋をアトリエにしている老画家のところのモデルだった。ある時、この老画家が亡くなったことを知る。彼は老画家のアトリエに足を踏み入れる。そこでモデルの女、セシリアと再会する。彼はセシリアに惹かれはじめて、二人の交際がはじまる。
彼はセシリアとの結婚まで考えるが、セシリアは真剣ではなく、映画俳優とも並行して交際する。ディノとしては気が気でなくなる。要するに、彼は彼女に振り回されるような感じになるわけだ。
自由奔放なセシリアに、彼は惹かれると同時に気持ちが搔き乱されるのだろう。強引になったり、時には激怒してしまったりする。それでも彼女から離れられない。
彼女は彼を残して映画俳優と旅に出る。彼女の家に行くと、病気の父親が亡くなったようである。さらに老画家のアトリエに行くと、老画家の妻が遺品整理に来ていて、そこでセシリアと老画家の間に行われていたことを彼は知ることになる。
やり場のない感情を抱えたまま、彼は娼婦を買おうとまでするが、その直後、スポーツカーをぶっ飛ばして衝突事故を起こす。(DV関係の問題を抱える男性はこの時のディノの気持ちに共感できるのではないかと思う)
一命はとりとめたものの、彼は入院生活を送る。彼は窓の外にある木を眺める。何を思うのだろう。彼は人生を生き直す決意を固める。退院後、彼のアトリエにて、彼は旅から戻ってきたセシリアと会う。彼は普通に会話をし、静かに別れる。去って行くセシリアを見送った後、振り返った時のディノの表情はなんとも感慨深かった。別れの辛さと自分の決意への信頼などが入り混じったような複雑な感情を表わしているように、僕には見えた。いい表情である。
脚本を書いたのはアルベルト・モラヴィアさんだ。名前は知っているのだけど、多分、作品に接するのは初めてかもしれない。すごくいい脚本を書くなあとたいそう感心してしまった。見事である。
その他、ディノの母親をベティ・デイヴィスが演じる。この人は存在感があるな。何て言うのか、インパクトがあって、脳裏に焼き付く感じが僕にはある。本作でも印象深い母親役を演じている。
この母親はほとんど夫(父親)と関係を絶っている。その代わり、裕福である。母親は金で自分の人生を諦めたのだ。そういう像が浮かんでくる。ディノと対比的な存在だ。
さて、ディノのことを考えよう。最初に、彼は人生に迷い、行き詰まっているという状況があった。ここが肝心だ。彼は何かに取り組まなければならないのだ。でも、何に取り組むべきなのかが分からないようである。悶々と無為な日々を送る。その矢先にセシリアと知り合うことになったのだ。
僕が思うに、セシリアは彼の空虚を埋める存在になったのだ。彼にとっては、彼女を失うことは自分に何も無いことを見てしまうことになるのだ。そのために彼はセシリアから離れられなくなるのだと思う。
彼はセシリアが必要である。自分のために必要なのだ。しかし、彼女は自由奔放で、彼の要求に応じない。彼女にとってセックスは遊戯みたいなもので、感情的な交流なんてなかっただろうと思う。彼はますますセシリアのために必死になるが、そんなディノをよそ目に、彼女は映画俳優なんかとの交際も続ける。
彼にとっての転機はセシリアがどんな女であるか知ってしまうところにある。彼にはとてもショッキングな体験だったことだろう。これを、まずセシリアの母親から、次いで老画家の妻から、彼は知らされることになる。
ああ、この母親の言葉がいい、「あの子は誰のためにも真剣になることはないのよ」といったことを言う。その通りだ。DV問題なんかの当事者はこのセリフに共感するのではないかと僕は思う。
また、老画家の妻は、老画家とセシリアの恥戯の図をディノに見せつけ、記念に買わないかと持ち掛ける。ディノは言葉も出せない。なかなか残酷な妻である。つまり「あなたもこうなるのよ」ということをディノに見せつけているわけだ。
彼はセシリアを失う。改めて自分の空虚に向き合うことになってしまう。娼婦を買おうとするが、上手く行かず、スポーツカーでぶっ飛ばして、壁にぶつかり大けがを負う。やり場のない感情をどうしようもなくなっているのだと僕は思う。
病室のシーンもまたいいのだ。看護婦が窓を閉めようとするとディノは開けておいてくれと言う。窓の外に立っている一本の木に見入っている。木を見るってのが、これがまたいいんだな。
バウムテストなんてのがあるように、木は人間を投影する。彼は木を眺めて何思うのだろうか。しっかり地面に根を張り、一本立ちしている木を見て、彼は何を学んだのだろうか。
その後、ディノは自分が生き直すことを母親に誓う。木から学んだことがあるのだ。陳腐な表現だけど、「死と再生」のプロセスを彼は歩んでいるわけである。
そうして彼はセシリアと別れる。静かに別れる。彼にとって、彼女以上に大切なものがあるからである、と僕は思う。そう、喧嘩別れなどしないのだ。
カウンセリングを受けたDV当事者にも同じようなことが起きる。
彼(としておく)は、自分たち夫婦の間で起きたことを話し、それを振り返る、その中で、徐々に自分がどういう人と結婚したのであるかが見えてくる。これに直面してしまうことは当事者にはとても辛い体験となるので、この時期に荒れる人もある。感情的になったりすることもあるし、DVが激化してしまうこともある。一見すると「悪化」に見えてしまうのだけど、本当はこういう時期を経た方がいいのである。その時期を通過すると、人によって異なるところもあるのだけど、自分の人生を取り戻したいとか、自分の人生を送りたいといった気持ちが生まれる。相手にしがみついたり、相手に振り回されたり、相手主体の人生に終止符を打ちたくなるわけだ。こうして、この人はさらに根本の問題に取り組むようになるのだ。ちょうど、ディノがセシリアを出会う前に持っていた、人生に行き詰まったという悩みに再び取り組むように、彼は相手と結婚することで回避してきた問題に改めて取り組むようになるのだ。彼が自分の生に踏み出すようになると、彼は相手との別れを静かに受け入れるのである。
つまり、カウンセリングを受けた離婚と受けない離婚とでは、この「生き直し」のプロセスが違うのである。新しく生き直す人(これはディノである)とそれまでの生き方を続ける人(これはディノの母親が象徴している)との違いと言っていいだろうか。本作はその違いをしっかり説明してくれているようだ。
とにかく、素晴らしい映画だ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)