1月24日(火):やりがい論
朝帰りだ。と言っても遊んでたわけじゃない。深夜勤務をしてきた帰りである。
食事して、寝ようかと思ったが、寝付かれず、ぼんやりと起きている。リヴィングではテレビがついている。僕は見ていないけれど、聞いている。聞いているけれど、頭は半分寝ている。だから僕がこれから書くことは不正確であるかもしれない。
なんでも若者の離職率のことを取り上げていた。若者が、大学卒業後、入社して一年以内で辞職するということで、これ自体は以前から問題視されていた。辞職する若者たちは「仕事にやりがいがない」などと言うそうだが、ふざんけんじゃないよ、と言いたくなる。
やりがいがないということで辞職した若者がテレビに出ていた。彼の勤めていた会社では、会議の準備を彼のような新入社員がするようである。こういう話はどこにでもある。それも立派な仕事である。
彼はその職場にやりがいを感じないということで辞職したらしいが、勿体ないことである。彼はやりがい(そのものではないが)の萌芽を自ら摘み取ってしまったのである。
もっとも困難な仕事、できればしたくないと思う仕事、やるのが億劫な仕事、好きでやるわけではなく義務で渋々やる仕事、苦労しないとできない仕事、そういうところにやりがいが生まれてくるものなのだ。もちろん、それ自体はまだやりがいとは言えないので、その萌芽としておこうとは思う。苦労して、不愉快な思いをしてまでしてそれをするところに、それをやる甲斐が生まれるものだと思う。
だから、やりがいがないからといって辞職する若者は、彼がその状態のまま変化も成長もしないと仮定すれば、一生やりがいのある仕事なんて見つけ出せるはずがないのである。そもそも、自分にとって本当にやりがいのある仕事が何なのか、これを本当に分かっている人はまずいないだろうと僕は思っている。
まず、やりがいというものは、与えられるものでもなく、予め出来上がっているものでもないのだ。それは生み出され、発見されていくものである。
それが生み出される前提条件として、そこに出来合いの解答がないということを挙げないといけない。答えが決まっていることであれば、そこから新しい何かが生み出されることはないからである。
このことは、言い換えると、答えが決まった途端にやりがいはなくなるということなのだ。従って、やりがいとは何かと言えば、答えを探求し続けることである。答えを探求し続けるということは、一つの答えに甘んじてはいけないということなのだ。仮に今はこれがその答えだと言えるものがあるとしても、その答えに満足するのでもなく、そこで完結するのでもなく、さらにもっと答えがあるのではないかと探求していくことなのだ。
それ以上に何があるかは見えない。そこは未知の領域である。この未知の領域の探求にやりがいが生まれるわけである。従って、会議の準備がつまらない、と安易に答えを出している人がやりがいを生み出すことは不可能だと僕は思っている。会議の準備という単調で面白くない仕事の向こうにどんな本質が見えるだろうか。やりがいを求める人はそういうことを考えてみてもよいと僕は思っている。
しかし、まあ、やりがいとかなんとか言うけれど、要は、好きな仕事しかしないと言っているだけではないかという気もする。イヤな仕事はしたくないというわけだ。すでに述べたように、僕の考えでは、こういう人は一生やりがいなんて見出すことはなさそうである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)