1月23日(木):「の」の使用
今日も僕に一日の与えられたこと、人と出会えたことの感謝を表したい気持ちになっている。いろんな人の関わりの中で生きていることの実感がある。
僕の文体の少々おかしくなっていることに気が付かれるだろうか。実は芥川龍之介の「の」を頻繁に用いる文章に感化されているのだ。読んでいて素敵な文章だなと僕は感じ、それを真似してみている。
「僕に一日が与えられたこと」と書くべきところをわざわざ「僕に一日の与えられたこと」と綴ってみている。他の箇所もそうだ。「が」や「を」の部分を、最初はそのまま書いて、後でそこを「の」に書き換えて、文章全体を訂正している。何もそんな面倒なことしなくてもいいのに、変なこだわりでそうしている。
まあ、文章のことはそれくらいにして、今日も僕は人との関わりの中で生きた。みんな素晴らしくて、素敵な人たちだ。人のことをそんな風に思えるなんて、一昔前の僕では想像できないことだった。僕の中の憎悪の消失に従って、人や世界に対して、自分自身に対しての体験も違ってくることを体験している。
人間の憎悪は僕の生涯のテーマだ。憎悪の解消はただ恨まなくなるということではないのだと、最近、つくづくそう思うようになった。「恨んではいけない」、それを教え諭すことは何一つ解決しないということが今の僕には理解できる。それとは別種の何かが芽生えてくることなのだ。
またパソコンの具合が悪くなった。ネットに接続できないのだ。回線に問題はなさそうなので、僕のパソコンの中で何かの衝突を起こしているのだろうと思う。明日、サイトの更新を計画していたのだけれど、どうやら延期となる。いろんな妨害の立ちはだかる中を、どうにかやっていくしかないだろうな。
サイト作業の不可であるようなら、明日は少し外出しよう。行ってみたい所がある。そこへ行ってみよう。行って何になるかと問われれば、僕は分からないとしか言いようがない。ただ、行きたいと思うから行ってみるというだけだ。もし、行ったとしたら、明日のブログで書こうと思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
芥川龍之介の文章はなんか独特だなと感じていた。それが「の」の活用にあるということを、多分文章心理学の本で読んだのだと思う。僕はひどく納得して、それに感化されたのである。
しかし、相変わらずパソコンの不具合に悩まされているなと思う。
(平成28年12月)