1月22日(日):生きる
今日もあまり忙しくはない。仕方がないが、助かる面もある。隣の解体作業は今日もしている。日曜日は原則として作業をしないという話になっていたが、どうやら作業が遅れているようである。今日のような日曜日なら、いくらでも作業してくれて構わない。それよりも期限通りに作業を終わらせてくれる方が僕としては嬉しい。だから、夜中でもどんどんやってくれて構わない。その代り、一月末日には必ず終了するということであればである。
お隣の作業が遅れていようと、僕にはそんなことをとやかく言う資格はない。僕の方こそ、作業が遅れているのである。サイト作業の方もそうだが、個人的にしている資料収集のこととか、室内環境を良くするために始めたこととか、その他の事務的な作業のいくつかも遅れている。なんとか遅れを取り戻そうと計画も立てているのであるが、なかなかその通りに事が運ばない。しかし、いくら遅れているとは言え、クライアントと会う時間を削ったりするのはイヤだし、ピアノ(キーボード)のためにも一定時間を割きたい。ここを削ることはしたくないのである。
先日買った映画DVDも未だ鑑賞できずである。一本の映画を三回とか四回に分けて見ることもざらにある。
そう言えば、昨日来たクライアントから、僕が徹夜することもあるというのを知って、「体力がありますね」と言われた。僕は自分が体力があるとか、タフだとは思わない。ただ、しなければならないから、そこまでできるだけのことである。
明日からの一週間のうち、三日徹夜することが決定している。アルバイトの方が入ったのである。それは構わない。本職とアルバイトと、双方が影響を及ぼし合わないように、調整しなければならない。むしろそちらの方がたいへんである。徹夜前に予定を詰め込んで、徹夜明けは少し暇になるように予定を組まなければならないのだ。これがけっこう技術の要るところである。
面接は相手があってのものであるから、相手の予定にもこれをうまく合わせていかなければならない。しかも、徹夜をしても、クライアントから夕べは徹夜をしたなと悟られないようにしなければならない。これまた技術を要するものである。
こういうのは本当にたいへんな作業である。でも、僕は自分だけがこんなにしんどいとは思わない。生きるということがそういうことなのだろうと、今では分かっている。世の中には自殺してしまう人もあるが、案外、自殺ということは簡単にできることなのかもしれない。普通に予想されている以上に容易な行為かもしれない。死ぬことよりも、生きていくことの方がはるかに困難多く、価値ある行為であると僕は考えるようになっている。
「暇週」なのは、今日で終わりである。明日から再びそれなりに忙しい日が戻ってくる。加えて、三日の徹夜である。僕は何としてもやり抜くつもりだ。僕がタフだからそれをするのではない。生きるとはそういうことであるからだ。
僕のことを憎悪し、蔑視している人たちもいる。それは構わない。それは彼らの問題なのだから。僕としては確かに気分のいいことではない。でも、彼らがそれをしている間にも、僕は自分の生を懸命に生きようと決めているのだ。僕は自分の生を怠ることはしないつもりである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)