1月21日(火):キネマ館~『怒りの河』
午後から、BSで映画を観た。『怒りの河』というジェームス・スチュアート主演の1951年の西部劇だ。60年以上前の古い映画だけれど、面白かった。技術の新しいとか古いとかいう違いはあれ、映画の本質的な部分というのは、その誕生の頃より変わっていないものだと僕は思う。だから昔の映画は安っぽいとかチャチだとか言って観ようともしない映画ファンは本当の映画好きとは言えないと僕は思う。
50年代の西部劇はある意味では非常に分かり易い。善悪がはっきり分かれていて、善人はそういう顔をしたスターが演じ、悪役は見るからに悪人顔である。途中から観ても、正義役と悪役は一目で分かるようにできている。
おそらく、キャスティングで苦労するのはその中間の役割だろう。正義組でも悪に近いキャラや、途中で悪人になってしまうキャラ、あるいは反対に、始めは悪役だったのに正義に寝返るキャラとかだ。この映画ではコールがそういう役回りだ。
主人公のグレンは開拓民を開拓地へ案内するガイドのような仕事をしている。途中、インディアンに処刑されかかっているコールを助け、友情が芽生える。一行は町に到着し、船に乗り換える。秋になると食物を届けるという約束で、人馬だけ先に開拓地に向かう。ところが、秋になっても約束の食物が届かない。グレンらは町に向かう。町はゴールドラッシュで賑わい、食糧が高騰していた。グレンらは自分たちの食物を船に積み、出航する。追っ手に追われながら、また、町で雇った男たちの反抗に遭いながら、村へ食糧を運ぶ。やがて、コールもグレンを裏切ることになる。
ラストは銃撃戦になるのだが、グレンとコールは拳でやりあう。共に拳銃もナイフもかなりの使い手であるのに、殴り合いで決着をつける辺り、友情の片鱗がお互いに残っているのを感じさせる。
典型的な勧善懲悪の物語だけれど、ふと思ったのは、この物語に本当の悪人がいるだろうかということだ。殺人者も強盗も現れない。正義側にしても、保安官が現れるでもなく、賞金稼ぎが登場するわけでもない。グレンもコールももとは名を知られた悪人だった。かつての悪人は善人になろうとし、善人だった人々も金に目がくらんで悪に染まっているだけで、本当の悪人も善人も登場しない物語であるように思う。
何気なく観た映画だけれど、なかなか良かった。観てよかったと思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
昔の映画が好きだ。故淀川長治さんが「映画は娯楽ではない、人生だ」というようなことをおっしゃっていたような記憶があるのだけど、その通りだと思う。今どきの映画は、「娯楽」の部分が大きくなりすぎて、「人生」の部分が感じられなくなっているのだけど、そう感じるのは僕だけだろうか。
(平成28年12月)