1月20日:悔い多き生 

1月20日(土):悔い多き生 

 

 僕の生活は相変わらずといったところだ。何も変わりはなく、何の進展もない。どちらかといえば後の方が苦しい。変化がないことには耐えられるけれど、前に進んでいない感じには耐えられない。停滞感が人を苦しめるのである、とあらためて認識する。 

 

 世の中のことも面白くない。 

 政治の世界では裏金問題ばかり取り上げられている観がある。無駄なパフォーマンスだと僕は白けた目で見ている。裏金なんて、政治家にとってオイシイ部分を自ら廃止するはずがなかろうと僕は思っている。 

 また、派閥解消の動きが見えているのだけれど、こんなの裏金問題とはほとんど関係がないんじゃないかとさえ思ってしまう。それに派閥を解散したとしても、派閥と言う名称こそ使わないものの、何らかの類似のグループが形成されるものだと僕は思っている。結局、何も変わらんのだ。 

 今の最後の話だけれど、たとえば100人の人がいるとしよう。100人の個人が一つにまとまるというのはなかなかたいへんなことである。それよりも、25人ずつ4つのグループを作り、4つのグループが一つにまとまる方が効率的であり、実現可能性も高いと僕は思う。派閥という名称とか、その在り方はともかくとして、そういうグループが存在することには利点もある。だから類似のグループが形成されていくだろうと僕は思う次第である。 

 まあ、政治の世界のことなんてどうでもいいや。政治家は国のために仕事をするのであって、国民のために仕事をするのではないものと僕は決めてかかっている。もっとも、国のために仕事をしている政治家がどれほどいるのか、僕は知らないけれど。 

 

 いつだったか、作家の今村省吾さんが書店をオープンさせたというのもテレビで見たな。今村さんの説によると、本屋さんは予想外の本との出会いが生まれる場所であるらしい。僕はその説は眉唾ものだと思っている。確かにそういうことも起きるけれど、新刊書ばかり販売している店では、どの店舗でも同じような本ばかり並んでいるものだ。予想外の本との出会いが生まれる場所は、僕の場合、間違いなく古書店の方だ。 

 新刊書販売の店では、今発売されている本の中での出会いということになる。そこに制限が生まれる。古書店の場合、過去に販売されたすべての本の中での出会いということになる。こちらの方が可能性は高い。それに出会いも希少価値が生まれる。つまり、その本は、絶版となっているために新刊書では買えず、ここで買うのを見送ったら今度いつ出会えるか分からないのである。そういう状況で一冊の本と出合うのである。そう思うと、古書の場合、見つけた時に、出会ったときに買っておかなければならないのだ。そうして数多くの出会いが僕にはあったけれど、今は本が多すぎるってことになって、困っているという有様だ。 

 でも、古書店巡りはまたやってみたい。最後に古書店巡りをやったのはいつだっただろう。コロナ前であることは確かだ。もう4,5年前のことだ。来月辺り、巡ってみようかなどという気持になってきた。 

 

 頭の中ではいろんな計画が渦巻いているものの、実際に実現できるのはそのうちのごく一部のみだ。その他はすべて頭の中だけに存在したもので終わる。すべてを実現するなんて不可能だ。とは言え、頭の中にだけ存在した諸々の計画や企画に、僕は後悔の念を覚える。もっといくつも実現できなかっただろうかと今でも思う。 

 サイトの方でも、復旧作業を推し進めたいと思いつつ、分裂病論を展開したいとか、精神病質の歴史を綴りたいとか、あれこれ思うところもある。戦争論、魔女論も展開したいと思う。この二つは引退後に研究しようと思っていた二大テーマだ。引退後などと言わずに、今から始めたい気持ちでいっぱいだ。 

 仕事に関すること、生活領域に関することでも、ああしてみよう、これやってみよう、こんなふうにやってみよう、新しくこうしてみよう、などなどいっぱいである。同じく、どれも頭の中だけのものに終わってしまうのだろうな。生きてる限り、少しでも実現させたい、実行してみたいと思うのだけど、すべてを現実にやるには、人生はあまりにも短すぎる。限られた人生時間でできることにも限界があるというものだ。 

 だから、人は人生に悔いを残すものだと僕は思う。実現化できなかったことをあまりにたくさん抱えながら人生を終えることになるのだから。どの人もきっとそうだ。満足して平穏な死を迎えるなんて、僕には無縁だろうな。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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