1月15日:コロナ禍を生きる~政府は正しいとすれば

1月15日(金):コロナ禍を生きる~政府は正しいと仮定すれば?

 

 飲食店の時短営業が始まって、昨夜は駅前も暗かった。どうやら多くの飲食店は宣言に従っているようだ。この方策がどれほど効果があるのか知れたものじゃないけれど、犠牲を強いる割には大した効用はないような気もしている。

 政府の対応を見ると目の前が真っ暗になる。しかし、政府の対策が正しいものだと仮定したらどうだろうか。その場合、一体、政府はどういう絵を描いているのだろうか。僕なりに考えた。

 

 まず、失業者を大量に出して、その人たちを自衛隊に勧誘する。これを「富国強兵計画」と呼んでおこう。

 次に、中小企業や個人商店を一掃して大企業だけの国にする。5坪の土地を100件売るよりも、500坪の土地を1件にした方が地価も上がり、尚且つ、固定資産税も一気に稼げる。これを「バブル再来計画」と呼んでおこう。

 最後に、ハイリスクの高齢者を大量に死なせて、年金や医療における政府の税負担額を引き下げる。消えた年金問題もこれでウヤムヤにできる。これを「高齢化解消計画」と呼んでおこう。

 どれも僕の妄想であるが、どれもあり得るような気がしている。飲食店の時短営業により、夜は早目に帰宅し、不要不急の外出を禁じるというのは、軍隊生活に慣れさせる一手段であるように思えてくる。そうなると、時短営業も外出自粛要請も「富国強兵計画」の一環という気がしないでもない。

 中小企業を減らしたい思惑は政府にはあるそうだ。もちろん、これは経済的な観点から言えば正当な理論であるということに過ぎないのであるが、以前から政府は大企業ばかりを支援していた節があり、また、現実にそのような批判がなされていたこともあるから、「バブル再来計画」もあり得ないことはないという気になってくる。

 政府は年金制度の見直しということを何度か言ってきた。確かに、制度としては維持していくのが困難なんだろう。年金制度は出生率がある程度確保されていること、並びに、ある程度のところで平均寿命が止まっているという条件が揃ってないと維持できないものであった。つまり、少子高齢化に対応できる制度ではなかったのは確かだ。高齢者の医療費の自己負担額に関しても見直しがなされているので、それらを踏まえると、「高齢化解消計画」もあり得るように思えてくる。

 他にもいろいろ考えられそうであるけれど、上記の3つのプランに対しては、政府のコロナ対応は極めて正しいものである。僕はむかっ腹が立つけどね。

 

 そうそう、コロナに関してはこれも言いたかったのだ。某東京都知事がよく言う言葉がある。要するにコイケだけど、「自分は大丈夫だと思わないように」などということを口にする。僕から言わせれば、政府にそれを言う権限があるのかと言いたい。国民は「自分は大丈夫」ということを学習してきたのだ。

 僕もこの一年で何度か経験したことがある。例えば、自分の生活圏内でコロナ感染者が出たというニュースが入る。僕は自分が感染したのではないかと不安に襲われる。政府のクラスター検出のおかげで、ある施設が感染源だと分かったとしよう。僕はその施設に行ったことはない。その時、「ああよかった、自分は大丈夫だった」と胸を撫でおろす。そういうことである。

 つまり、政府のクラスター対応が、国民の「自分は大丈夫」という感覚を強化するのに一役かっていたのだ。僕はそう考えている。危ないのはあそこであってここではなかった、ああ大丈夫だったと、何度安堵したことだろうか。

 政府は感染源を辿って行って、クラスター発生源を断つという方策を取った。それの妥当性は僕には分からないけれど、それによって、問題の起きた場所を特定したことにより、個々人の中で危険地帯と安全地帯の分裂が起きているのではないかという気がしないでもないのだ。問題はあそこであってここではないというこの感覚は、言い換えれば、問題があるのは彼らで自分ではないという感覚に通じるものである。自分は大丈夫だという感覚が若い人にあるとすれば、そのスプリッティングを生み出した一因は政府の対策にもあると僕は考える。

 しかし、その話は脇へ置いておいて、もし、自分は大丈夫だという感覚が学習されたものであるとすれば、それは消去され、新たに再学習されなければならないことになる。どのようにしてそれが可能であるか。コイケさんのようにメッセージを送るだけではだめだ。というのは個々人の体験に基づかないからである。つまり、それは個々人の学習に資さないからである。

 再学習の一番手っ取り早い方法は、実際に感染することである。実際に発症することである。一度でも感染して症状が出れば、自分だけは大丈夫などという観念は吹っ飛ぶことだろう。ただ、この方法は、感染予防を徹底するためには一度全員が感染しないといけないという逆説に至ってしまう。従って、この方法はあまりよろしくないことになる。

 もっとも安全かつ健全な方法もあるが、それはかなりの時間がかかる。それは社会性の感覚を身につけるというものである。関係性の感覚を学んでもらうことである。自分が大丈夫であるためには周囲も大丈夫でなくてはならず、全体が大丈夫でなければならないという、その感覚を学ぶことなのだ。どうやって学ぶか。社会で生きることによってである。

 

 さて、最近はこういうことを書くのにも疲れてきた。「コロナ疲れ」とか「コロナうつ」などというワードも頻繁に目にするようになった。そんな言葉では十分に言い表されないような体験を僕はしている。コロナに関しては失望感と絶望感しかない。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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