1月13日(日):余生を無駄なく
少し時間ができたのでブログを書いておこう。しばらくこれも書いていなかった。この一週間はそれなりに忙しくなった。あれやこれやと仕事が入り、加えて、年明けの出遅れを取り戻す必要もあった。
もちろんアクシデントもある。サイト用の原稿を書いていた時のことだ。A4にして5枚程度の文章を打ち込んだ後、少し休憩したのだった。続きを書こうとパソコンに向かうと、その間に何があったのか不明だけど、パソコンが再起動していた。それで書いた原稿が失われてしまったわけだ。なんでバックアップ機能が働かないのかは不明である。
まあ、それくらい大したことではない。もう一度書けばいいだけのことだ。確かに二度手間にはなるけれど、最悪のことではない。
一週間、クライアントと面接していてふと思った。
親から愛されなかったと信じている人たち、あるいは不幸な子供時代を経験したという人たちの一群がいる。AC群と呼んでおこう。一方で、親から十分に愛されたという人たちもいる。こちらは非AC群と呼んでおこう。
AC群は自分たちは苦労が多いと信じているようだ。僕はそこに反対はしない。確かに彼らは非AC群よりも苦労することが多くなるかもしれない。しかし、生きるための努力は、AC群よりも、非AC群の方がはるかにしているものである。僕にはそこが良く見えているような気がしているのだけど、AC群はそこを信じないようである。
AC群が間違えるのは、非AC群は何の努力もなしに成功が与えられていると不当にも信じていることである。実際はそんなことはない。AC群が生きていくことができず、非AC群が生きていけるのは、それだけ非AC群の方が努力しているからである。
非AC群は、働くための技能を身に着けてきただろうし、職場に適応しようとしてきただろう。AC群よりもはるかに複雑な人間関係になじむように苦労したことだろう。ノルマや成績なんかのプレッシャーにはるかに晒されながら生きていることだろう。非AC群はそれだけの努力をしてきているのだ。だから生きていけるのであって、親から愛されたからということだけで自動的に生が与えられているわけではないのだ。彼らはAC群以上に生の形成に自ら関与していっているのだ。
それを考えると、僕も負けているわけにはいかない。親に恵まれていようといまいと、子供時代が不幸であろうとあるまいと、今現在において生きることが難しい限り、違いはないのだ。AC群はもはや努力することを断念しているところがあるように僕は感じる。僕は、少なくとも、努力を惜しまないようにしよう。AC群に僕は入らない。
とは言え、なかなか身体がキツイ。今年に入ってから、体調が万全であった日が少ない。年頭に風邪を引いたことと、それを若干こじらせてしまった後遺症があって、めまいのように頭がクラクラする瞬間に繰り返し襲われる。
僕の今年の目標は「引きこもる」だ。仕事以外では人と会わず、人付き合いを限りなく制限したい。今のところ比較的よく実践している。
引きこもって、映画を鑑賞し、本を読み、勉強をし、そして書く。それだけをやっていきたい。
年が明けたばかりでこんなことを言うのもなんだけど、来年の今頃、僕は生きているだろうかと不安になる。去年の春頃からこの強迫観念に襲われている。僕の人生はもうそんなに長くないのではないだろうかという観念に襲われ続けている。僕はこの観念を追い払わない。余生1年のつもりで今日も生きる。人生の最後の時期を無駄に過ごしたくない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)