1月1日:怒りやすい人

1月1日(水):怒りやすい人

 

 新年を迎えた。

 とは言え、元日はいつもと同じような一日になった。いつものように高槻に出て、職場で過ごす。ただ、さすがに正月でもあるので、あまり朝早くから入るのは止しておこう、加えて遅くまで残るのも控えようと決めてはいた。昼前に建物に入って、夕方には職場を後にする。

 職場入りして最初にしたのは、昨日の大掃除の後片付けだ。とても新年を迎えるような室内ではなかった。それを片付け、いつもと同じ風景にして、あとは勉強して過ごす。今年は本を読むぞと気合を入れる。

 

 読むことに関しては、今年は二つのことをしようと思っている。一つは新聞を読むということだ。やっぱり新聞がいい。もう一つは月に一作は長い長編小説を読み上げるということだ。

 長い長編小説というのは、文庫本で分冊になるくらいの分量の小説という意味だ。今月のチョイスはチャールズ・ディケンズの『二都物語』だ。なんとなく愛と友情のために自己犠牲するという甘ったるい物語だろうという印象を抱いているけれど、きちんと読んだことがなかったので、ちょっと読んでみようと思い立つ。

 他、論文を二つほど読む。

 

 最近来られたクライアントのことも今日は考えていた。

 怒りやすい人がその問題を何とかしようとすると、まず間違いなく、怒らないようにしようと努める。これがいかに間違った目標であり、精神に悪影響を及ぼすかは自覚できない人が多い。

 性格とか気性、気質として激情的な人もあるかと思う。しかし、そういう人は常に怒っているわけではないし、易刺激的と言えども四六時中刺激に反応しているわけでもないのだ。どんなに怒りやすい人でも、怒らないことに成功している場面はいくらでもあるものだ。

 しかし、怒りやすい人に共通して言えるのは、彼らがまったく幸福ではないということだ。不幸を感じるが故に怒りを覚えるのだ。もっとも、怒るのはそればかりではないけれど、けっこう大きな割合でそれがあるように思う。自分自身に満足できないし、自分の生活から幸福を見いだすことができないし、将来に望ましいものが待ち受けているわけでもない、そういう人が多いように僕は感じている。

 ところで、満足とか幸福というのは、もたらされるものではない。与えられるものではないのだ。それらは生み出されるものであり、発見されるものである。生み出されなければそれは存在せず、発見されなければそれらは見過ごされていく。そういうものだと思う。

 もう一つ怒りやすい人の特徴は、彼らが非常に、人一倍傷つきやすいというところにある。傷つきに対する反応として怒りが誘発されていることもある。彼らは傷ついても泣いたり悲しんだりができないのだ。自分が傷ついたということすら気づいていないことだってある。彼らは悲しむことができるようになるか、傷つきに強くなるかした方がいいということになる。決して怒りを抑制することだけが解決ではないのだ。

 

 さて、2020年はどんな年になることやら。僕は日本がガタガタになる年だと予測しているけれど、その中でどうやって生きていくかが今の僕の課題になっている。正月だと言って、浮かれているヒマはないのだ。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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