1月1日(月):念死をこころがけて 

1月1日(月):念死をこころがけて 

 

 謹賀新年。 

 

 と言っても、僕はいつものように深夜勤務を終えて高槻に出る。いつもと変わらない感覚で、お正月気分などとは無縁だ 

 

 今日の深夜勤務はキツかった。大晦日から元日の朝ということで、出歩いている人たちが多かった。こういう日にワンオペなんてどうかしてる。客を捌くのに追われて、いろんなことができずに終わった。けっこう面倒な客も多かった。 

 

 イライラした気持ちで高槻に出る。職場に入る。ここだけは時間が止まっているかのようだ。 

 職場に来ても、特にこれをするといった予定はない。大掃除の続きをやって、あとはひたすら本を読んだり、サイトの原稿を書いたりして過ごす。 

 夕方頃、腹が減ったので食事をとる。元日でも営業している店はある。年末年始も関係なく働いている人たちも多いのだなと改めて思う。新年をゆっくり家で迎えるというのはなんて贅沢なことなんだろうと思うし、そういう人はかなり特権階級の人ではないかとさえ思ってしまう。 

 食事を終えて職場に戻る。16時ころだ。昨夜から寝ていないので、ちょっと仮眠を取ろうと思って横になった。 

 するとどうだい、まさかの地震で叩き起こされたよ。けっこうな揺れだった。室内のものがいくつか倒れた。なんかツイてないな、と思い、そのまま起きて過ごす。 

 

 帰宅して、それがけっこうたいへんな地震だったことを知った。正月早々、大地震か、不幸なことだ。なんとなく今の日本を象徴しているかのような印象を受けてしまった。 

 石川県の方が震源地らしい。僕がニュースで見た時は火災ばかり報じていた。地震に関することが伝わってこない。 

 また日本がたいへんになるな。そんなことを思いつつ、僕は僕で僕の現実を生きなければならない。ここで寝ておかないと、今晩の深夜勤務に差し支える。地震の報道も見たいところだけれど、僕は就眠させてもらった。 

 こうして寝ているのにどうしてこのブログが書けたのかと疑問に思われる人もいらっしゃるだろう。実はこれは1月2日に書いている。昨日のことを思い出しながら書いている次第である。 

 

 それなら日付を1月2日にすればいいのだけれど、僕の変なこだわりで、年初のブログは1月1日から始めるという僕のルールがあるのだ。 

 

 今日(つまり昨日のことだが)、ニヒリズムに関する論文を読んていて、「念死」という言葉に引っかかった。なんかいい言葉だなと感じた。年始に念死かと思い、これをブログにしようと思いついたのだ。その後で地震が来たのだ。ああいう映像を見ると、どうもこういうふざけた内容のことを書くのも気が引けてきた。 

 「念死」というのは、「希死」とは違うのだ。死を希望するのではなく、死を念じることである。それは死を意識するということであり、メメント・モリと同じような意味になってくると僕は思う。自分もいつかは死ぬことが決まっている。だから死を忘れないようにしよう。2024年を迎えることはできたけれど、2025年を迎えることができるかどうかは分からない。いつも死を意識して、生きられる時間を生きようと思う。 

 今日の地震で亡くなった人もおられるだろう。今のところ正確な数字は分からないみたいだ。これから数が増えていくものだ。その人たちももっと生きたかったことだろう。死が突然やってきた体験をしたことだろう。そうならないためにも死を覚悟して日々を生きようと思う。今年の目標はそれだ。常に念死をこころがけよう。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

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