6月24日:差別というおもてなし

6月24日(木):差別というおもてなし

 

 オリンピックネタが賑わっている。海外から招待した人たちに対する「おもてなし」にもあれやこれやの批判が飛び交っている。

 以前、言われていたのは医療従事者をそちらに割くというものであった。ワクチン接種や検査などの優先にも批判がなされた。最近なされている批判は、酒類の販売提供ということだ。選手村では飲酒可能で、宴会をやろうと構わないそうである。

 あまり、僕には興味のないことだが、選手村でのウーバーイーツの利用を求めているというものもある。選手村では食事が提供されるはずなのでその必要はなさそうに思うのだけれど、そういう要望が出されているそうで、それに対する批判も噴出しているとかいうことだ。

 コンドームも配布するとかいう話も僕は耳にしたことがある。ホンマかウソかは定かではないけれど、ホンマだとすれば選手を侮辱するにもほどがあるというものだ。彼らは何のために日本に来たと思っているのだろうか。これ、すべて日本の堕落である。

 おもてなしの文化だということらしいけれど、おもてなしがどういうことか本当に理解しているのだろうか。国民に禁じていることを許可することは、おもてなしではなく、差別である。おもてなしにお金をかけることは、多少の経費は必要としても、過剰な経費をかけることはおもてなしとは言えない。また、現在の状況を無視することもおもてなしではないのだ。現在の状況で、限られた経費の範囲内で、快適に過ごしてもらうことを模索することがおもてなしであると僕は思うのである。要するに、金銭やモノではなく、もっと気持ちの問題なのである。

 僕はそのように思うので、招致の際に有名になった「お・も・て・な・し」がこれであるとすれば、本当にどうしようもないっていう気持ちになる。ただの優遇差別じゃないかと思うわけだ。

 

 僕はよく知らないんだけれど、橋本聖子会長の表情がうつろになっているとかいう話も耳にした。橋本会長だけでなく、丸川議員もそうだということらしい。僕はもう一人、尾身さんも付け加えたい。無表情になるのは本音や本心を押し殺しているからであろう。

 橋本会長も、僕は別に弁護するつもりはないんだけれど、悲劇だ。森前会長の女性蔑視発言による辞任を受けての登板となったわけだが、女性を登用させればいいという安易な考えが透けて見えるものだった。結果的に、女性に責任を負わせる形になっているのではないかと思うのであるが、それはそれで立派な女性差別であるようにも思えてくる。日本の至る所に差別ありだ。

 

 東京オリンピックを開催すれば、日本はメダルラッシュを迎えるだろう。日本選手が優れているのではなく、海外の選手が不利であるためである。一人の選手に、トレーナーとかコーチとか、あるいはメンタルや栄養の専門家など、たくさんの人がついているものである。外国の選手はその人たちを連れてくることができないのだ。日本人選手と同じ条件ではなくなるわけだ。日本選手は有利であり、有利な方が勝ったということになるだけじゃないか。それで国民が盛り上がるとすれば、国民の質が問われることになるし、それで国民が盛り上がると政府が高を括っているなら、それは国民蔑視でしかない。

 これもまた差別である。日本人選手は有利である。海外選手には不利を強いる。有利な方がメダルラッシュに湧くと期待しているとすれば、それは海外選手を利用しているというにすぎない。これもまたひどい話である。

 

 今からでも、オリンピックは中止するべきである。マトモな人たちの主催によるものではないのだ。あらゆる部分で異常が生まれているイベントだ。関係者はみんなそれに汚染されている。尾身会長も、無観客が望ましいと言っているけれど、本音は中止を言いたいのではないかと思う。感染症の専門家は感染症の観点で見るし、オリンピックなんてものを主軸には添えないことだろうと思う。

 観客の上限も上がったらしい。人流もイベントも、オリンピックのためなら許されると考えているようだ、という批判もある。僕も同感だが、もっと最悪のシナリオがある。

 オリンピックのために国民の人流を促し、感染拡大は国民の責任にされるというシナリオだ。差別主義者はそういう発想をする。自分が悪の一端を担っていても、悪は奴らだ、奴らが悪だからこうなったと考えるわけだ。そんなのが国のトップにゴロゴロおるとすれば、日本はもはや壊滅である。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

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